ハプニングビーチ
穏やかな秋の夕方、私はどこまでも続く海岸線を歩いていた
勤務時間は終わっていないがスマホを持っているので問題ない
これは会社のルールではなく私個人のルールであるが、とにかく問題ない
送られて来たメールに対応するのが今の仕事の9割だ
机に座ってやる仕事は済ましてきた
それなのに、こんなにも夕陽が美しい時間帯に机にかじりついていたら、月に替わってお仕置きされてしまう
海岸線は南北に沿っていて、南から微かな風が吹いていた
私は風を背に受け、南から北へ向かって歩いていた
普段は波内際を歩くのだが、満月の後で潮が満ち、波内際の砂は濡れていた
濡れた砂は硬いので、私は岸側の草の生えた砂地を歩いていた
しばらく歩いていると、トンボが私を追い抜いた
トンボは二匹が連結していた
「交尾中か。いいものに遭遇してしまったな」
誰もいない砂浜で私が人知れずはにかんでいると、別のトンボが後ろから私を追い抜いた
「また交尾中か」
そのトンボも連結していた
今日はトンボも盛り上がるくらいの気持ちいい日らしい
仕事中だが海岸に来て良かった
私は私が下した選択を褒めた
すると、またトンボが私を追い抜いた
今度は2組だ
2組と書いたのは、どちらも連結していたのだ
すごい確率だ
トンボとはいえ交尾中の生き物にこんなにも頻繁に出会うなんて
とは言っても相手は昆虫でこっちは哺乳類
立て続けに交尾を見たからといって欲情することはない
しかしカマキリが好きなあの歌舞伎役者ならどうなのか?
あいつならこの光景に欲情するのだろうか?
だとしたら、それは凄いことだ
種でなく類を超えている
やはりあいつはスケールが違うのか
そんなことを考えていると、またトンボが私を追い抜いた
今度は4組だ
こうなると、さすがに変だ
こんなにも交尾中のトンボに出くわすわけがない
二匹繋がっているように見えるが、実は一匹なのではないのか?
そう思って飛んでいくトンボに目を凝らしたが、胴体の膨らみは二つある
それに、あれを一匹とカウントするには大きすぎる
あれは私が知っているトンボのサイズではない
しかし、トンボ一匹の大きさとはどれくらいか?と問われたら曖昧なことしか言えない
そうだ、ならば一匹で飛んでいるトンボを探せばいい
確かな違いが確認できれば、このモヤモヤは晴れるはずだ
そう決めると私は一匹で飛んでいるトンボを探した
だが私を追い抜いていくトンボはどれも全て連結していた
そして、その数は増えていった
なぜかみな、南から北へ向かっていて、例外はなかった
そうやって一匹で飛んでいるトンボを歩きながら探したが、一匹も目にすることはなかった
その間に私は少なくとも100組の連結したトンボに追い抜かれた
これは一体どういうことなのか?
飛んでいる全てのトンボが交尾中
こんなことあるのだろうか?
私の頭の中に浮かんだのは、ハプニングバーという人間様が作った風俗のとある業態だった
人間様の世界にはハプニングバーという業態がある
そこでは複数の男女が同じ空間でセックスする
ハプニングと名付けられているのは、そこでの行為は客がハプニングで始めたことなので店としては感知しかねることでございます、という店側の主張を汲んでいるからだ
ニュースでこの言葉を聞くたびに、警察というものは全くやる気がないのだな、と呆れてしまう
ニュースは警察発表された用語に従って報道されるのだから、それを違法として取り締まる気があるのなら、店側の意向を汲んだ業態名を使った時点で負けである
まあ、警察のことはとりあえず置いておこう
私がその時思ったのは、人間様の世界にはハプニングバーがあるのだから、ここはトンボにとってのハプニングバー、ハプニングビーチなのではなかろうか、ということだ
だとすれば、とんでもない場所に足を踏み入れたことになる
どんな生き物だって交尾中に邪魔されたら怒るはずだ
おそらく天敵がいないなどの条件でこの場が選ばれたのだろう
それなのに、そんな場所をノコノコ歩く人間の俺
なんとも申し訳ない気持ちになった
そうしているうちに、私を追い抜いていく連結したトンボの数は加速度的に増えていった
そして、どんなに目を凝らして見ても、一匹で飛んでいるトンボはいなかった
もしこれが人間様のハプニングバーなら、この店の経営者はとても優秀で良心的と言える
みんながセックスしているのに自分だけしていないという状況ほど悲しいものはない
男女の数が同数でなければ会を開催しないという原則が鉄則として守られているのなら、おそらくそのハプニングバーは大人気だ
誰も溢れものを出さないその経営者は、落ちこぼれは出さないと頑張り尽くす熱血教師や、撤退の際、しんがりを務める軍の指揮官のように、おそらくその人格までも褒め称えられているだろう
しかしここはそんな良心的な経営者がいる人間様のハプニングバーではない
ただの千葉の海岸だ
オスとメスを同数に揃えるということを、一体誰がコントロールしているというのだろう?
それに、そもそもこんなにもたくさんのトンボが一斉に交尾したくなるものだろうか?
気持ちのいい秋の夕暮れではあるが、中には、そんな気分じゃない、というトンボだっているだろう
すると私の中で、ある仮説が閃いた
挿れているのではない
舐めているのではないか?
トンボは頭と尻を連結しているかのように飛んでいる
しかし、冷静に考えると、何をどこに挿れているのだろうか?
昆虫ではあるが、口に生殖器があるとは考えにくい
すると、これは挿れているのではなく、舐めていると捉えた方が自然である
蜜をちゅうちゅうと吸うみたいに、オスがメスの尻をちゅうちゅうと吸いながら飛んでいるのではないか?
するとこれは結構な極楽状態だ
極楽トンボという片方が淫行で捕まったお笑いコンビがいるが、極楽トンボとはこの状態のことを指すのだろうか?
そんな時、遠くの波内際に白いドレスを着た女が見えた
目の錯覚かと思ったが、それはウエディングドレスだった
なぜこんなところに、と思ったら、少し離れたところに5.6人の人の塊がいて、うち一人が大きな板を持っていた
多分それはレフ版で、ウエディングフォトの撮影だ
こんなところでなぜ?と思ったが、海をバックにしてしまえば、色はあとで加工できる
千葉の海岸で撮っておいて、バハマで式を挙げてきましたと言える時代なのだ
悪いこと考える奴がいるな
そう思って見ていたら、タキシードを着た男がウエディングドレスを着た女の手をとった
その瞬間、私の中で一つの考えが浮かんだ
トンボの連結は、実は手を繋いでいるようなものではないのか?
トンボにとっての手が羽なのか、触手なのかわからないが、どちらにしても接触させたまま飛ぶことはできない
ならば、せめて頭とお尻をくっつけて飛ぶことで、親愛の情を確かめ合っているのではないのか?
つまりここはハプニングビーチではなく、山下公園のような健全なデートコース
好きなアニメの話や、新しくできたタピオカ店の話をしながら手を繋いで歩いているティーンと同じではないのか?
ならば、それを挿れているのか、舐めているのかの二択でしか見ていなかった私とは何だ!
相手が昆虫とはいえ、大変失礼なことをしてしまった
気がつくと陽は沈み、西の空を起点とした赤いグラデーションが東側の空まで繋がっていた
海面は空の赤いグラデーションを受け、紺碧の輝きを増していた
こんなにも美しい夕暮れがそこにあったのに、私はトンボしか見ていなかった
結局、トンボが何をしているのかわからないが、いずれにしても、これはトンボにとって幸せな時間のはずだ
そんな幸せなトンボたちに囲まれて、一緒に海岸線を歩くことができた私は、幸せに違いない