スカスカなもので満腹にしてはいけない
出されたものは残さず食べる
物心ついて以来、ずっと守ってきた美徳だ
しかしきのう、自分で作った料理を大量に残した
調味料を使わなくていいように、一年以上前から野菜も肉も蒸しただけのものを食べてきたのだが、突如、野菜も肉もスカスカだと感じたのだ
スカスカというのは栄養がまるでないという感触だ
こんなスカスカなもので満腹にしたところで、それが何になるんだろう?
自分を組成するものがスカスカだったら、一生懸命それを自分に同化させようとしても自分がスカスカになるだけではないのか?
そんなことを思っていたら、食べるのをやめていた
スカスカなもので満腹にしたら自分がスカスカになるのではないか?
その思いは食べ物以外にも及んだ
スカスカな感情で心を一杯にしたら心がスカスカになるのではないか?
スカスカな考え方で頭がいっぱいになってしまったら頭がスカスカになるのではないか?
スカスカな行為で一日がいっぱいになってしまったら日常がスカスカになるのではないか?
スカスカな日常で毎日がいっぱいになってしまったら人生はスカスカになってしまうのではないか?
何がいけなかったのだろうか?
どこで間違えたのか?
満たす、ということだけに囚われてしまったのではなかろうか?
空腹を満たせば、とりあえず安心する
心の中に何らかの感情があれば、虚無から逃れられる
予定が埋まっていれば、少なくとも何もない人生ではない
満たされないことへの恐怖が、ブラックホールのように価値のないものを引き寄せているのではないか
ではどうすればいいのだろう?
最初から全てを埋めようとしなければ、スカスカなものを掴まされることがなくなるのではなかろうか
足りなくて当たり前
そう定義してしまえば、満たされないことへの恐怖は消滅する
だがそれは難しい
足りない、という思いは消えることはない
今回、突如、肉や野菜をスカスカに感じることができたのは、出汁を取った味噌汁を飲んだからだった
ちゃんとしたものが自分の中に入ってきたので、スカスカなものがわかったのだ
結局、蒸した肉と野菜は食べなかったのだが、代わりに味噌汁をもう一杯飲んだ
満腹にはならなかったが、それで「足りない」という思いは消えた
味噌汁に余韻があったのだ
いいものが体の中に入ってきて、それが波のように広がっていった
胃袋には物理的な隙間があったが、身体が真に欲していたものは、身体の隅まで広がっていった
満たす、ということを、隙間を埋める、と解釈するとすべてを間違えるのではないか?
隙間があっても波のように広がって、それで満たしてくれるものもある
例えば思い出
スカスカな出会いで時間を埋めるより、忘れられない人を思い出しているほうが満たされているのではないか
今の社会はアテンションエコノミーが回している
つまり、情報の価値よりも、注目の高さのほうが経済的価値を持っている
だからぼーっとしていると、自分の隙間に自分が必要としていない関心を植え付けられることになる
SNSはスロットマシンと同じ理論で設計されている
スロットマシンのレバーを引くのは次に何が出るかわからない、という不確実性が原動力となっているが、SNSでスワイプするのも同じこと
そうやって次から次に自分の隙間に自分が必要としていない関心ごとを植え付けられる
そして、自覚できないままスカスカになっていく
自分の隙間を自分以外のものに埋めさせてはならない
自分の隙間を埋めることを他人に明け渡すのは、自分を明け渡すことになる
自分を持て余している人間は、むしろ進んでそうするだろう
今の時代、それがとても簡単にできるのは、それが金に変わるからだ
植え付けられた自分に必要のない関心は広告枠として売り出され、メディアに接している限り要らないものを欲しくさせられる
欲しいものは際限なく増えていき、借金してでも手に入れる
それは薬物中毒と同じ構図である
有名な話だが、顧客のことを「ユーザー」と呼ぶのはテック業界とドラッグ業界しかない
まずは自分で出汁を取る
要らないものが要らないとわかるための最初の一歩はそこからだ