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『なぜ自分が』を考える大切さ〜教員という存在を問い直す〜
一般社団法人CAP高等学院の代表理事をしています佐藤裕幸です。CAP高等学院は広域性通信制高校である鹿島山北高等学校と提携しているサポート校で、高校卒業に必要な単位を所属する生徒さんに最適な形で取得をしてもらうためにサポートをする一方、時間割がないオンライン上の学校にすることで、生徒さんの情熱と才能を解き放ち、自分の在り方を考えてもらっています。
そのCAP高等学院を運営しながら、他には増進堂・受験研究社の客員研究員として問題集の作問や編集などをしたり、青山学院大学地球社会共生学部の松永エリックゼミで、アドバイザーをしたりもしています。昨年は4月に刊行された『生徒一人ひとりのSDGs社会論』や10月に刊行された『学びとビーイング〜学校内の場づくり、外とつながる場づくり』に寄稿しました。また、今年度から東京にある上野学園中学・高等学校や岡山にある岡山理科大学附属高等学校など複数の中学・高校で「自分丸わかりチャレンジ」という講座をすることになりました。
そして、11月18日からは広島県福山市にある英数学館で久々の現場復帰もすることとなりました。
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2024年11月18日、久しぶりに現場復帰した広島県福山市の英数学館小学校・中学校・高等学校。授業を再開して2週間、生徒たちのアンケートには「佐藤先生、神!」という驚きの言葉がありました。その瞬間、嬉しさと同時に「本当に自分はこの生徒たちに必要な存在なのだろうか?」という自問を引き起こされました。
今回は、そんな生徒の声をきっかけに、教員という存在に必要なことを自分の思うがままに書いてみたいと思います。
生徒と真剣に向き合うには
教員として「生徒のため」と全力を尽くしているつもりでも、それが自己満足に終わってしまうリスクは常にあります。そこに「なぜ自分が?」という問いを加えることで、行動の本質が明らかになり、唯一無二の教員像が見えてきます。
僕自身、この問いに出会ったのはある生徒との経験がきっかけでした。Kindleから出版した『自分まるわかりチャレンジ』にも書きましたが、大学生の時に始めた個人指導塾のアルバイト先で、最初の担当として出会ったその生徒は、学業に優れていただけでなく、自らの好奇心を原動力に、某大手ハンバーガーチェーン店の全国大会に出場するなどさまざまな成果を上げていました。好奇心も強く、インターネットが普及していない当時、前の晩に鈍痛で入院することになった病院を調べ、翌日には入院先までお見舞いに来てしまうような生徒でした。しかし彼は「自分のやりたいことがない」として現役で合格した有名大学をたった3ヶ月で中退することを決断。その報告を受けたとき、僕はは深い後悔に襲われました。表面的な成果だけを追い求め、その生徒の内面にある本質的な悩みに気づけなかった自分。「なぜ自分が担当したのか」という根源的な問いに向き合わざるを得なくなりました。
教員としての価値を問い直す3プラス1の視点
僕は生徒との関わりの中で、以下の3つの問いを常に意識するようにしています。
① 「誰のために?」という視点
もちろん、教育活動の対象が「生徒」ということは間違いないはずです。もしかすると、中には,生徒数を増やすために「学校のために」や,自分が顧問をしている部活動が実績を上げることで評価を得られる「自分のため」というのもあるかもしれません。そして、その考え自体を完全否定しようとしているわけでもありません。
たとえば、児童・生徒数が増えることは、それだけ向き合える児童・生徒の数も増えることなので,決して悪いことではないと思いますし、向き合う児童・生徒が増えればなおさら「生徒のため」という思いをしっかり持っていないと、児童・生徒からの評判が悪くなり、そこから保護者の評価の悪さにつながり、結果的には向き合える児童・生徒もいなくなることもあり得るでしょう。特に少子化が進む日本において、向き合える児童・生徒の絶対数が減っている以上、評判の悪くなる行動は自らの首を絞めることになりますので。
自分の評価を上げたいために頑張ることも個人的には否定することでもないかなと思っています。評価を上げるために自己研鑽したり、新たなチャレンジをしてみることはとても大事なことです。ただ、児童・生徒を自分の思うがままにコントロールしようとすることで自分自身の評価を上げようとすることだけは絶対に避けなければいけませんが…
しかしながら、教員としての行動が「自分の評価」や「学校のため」に偏っていないか問い直す必要はあると思っています。「自分の評価」や「学校のため」が強くなると、すぐに児童・生徒には見透かされてしまいますからね。
② 「何のために」という本質
校則や部活動の目的を思考停止で受け入れるのではなく、その根本的な意義を考える必要があります。
教員によっては校則を守ることが目的となってしまい、「校則にあるから」と思考停止した生徒指導を行なっている場合も見受けられます。本来であれば、校則は「生徒を守るため」のものであって、「生徒に守らせるもの」ではないはずです。これも「何のために」が明確になっていないことからくる過ちです。「何のために」を明確にして児童・生徒に向き合うことはとても重要です。
教員の教育活動が「何のために」を明確にすれば、それだけ児童・生徒にとってもわかりやすいものとなり、仮に教員がその目的を忘れたり、誤った解釈をしてしまったとしても、児童・生徒からの指摘によって修正することも可能になります。
教員としての自分が「何のために」をこれを機に明確にしておくといいように思います。
③「なぜ今なのか」というタイミング
これも結構重要なポイントと思っています。
担当している校種にもよりますが、児童・生徒と学校で関われるのは3〜6年です。児童・生徒は次から次へと卒業し、そして新しい児童・生徒を迎え入れています。また、公立に勤務していれば異動もあるでしょうし、私立に勤務していても、教員自体が新しい環境を求めることもあるでしょう。そのような流動性があれば、当然児童や生徒にも変化が起こるのは当然です。むしろ変わらないほうがおかしい。にも関わらず、教員が児童・生徒に提供するものが全く変わらないのはおかしいことは明白です。
その生徒と向き合える短い期間だからこそ、「なぜ今なのか?」というタイミングをしっかりと逃さないことこそ、教員としての大きな役割と考えています。
プラスワンは「なぜ自分が?」
教員の皆さんは、いつ何時も真摯に児童・生徒に向き合っていると思います。食事の時や飲み会の時でさえ、「誰々(児童・生徒の名前)は、いつも〇〇で...」のように生徒を話題にし、真剣に児童・生徒のことを考えているなぁと思わせる場面をこれまで何度も見てきました。
でも、そこに「なぜ自分が?」という話が出てくることが意外と少ないように思われます。
「なぜ自分が?」は個人的にとても大事な感覚だと思っています。というのも、担任なども含め、ほとんどの場合、児童・生徒が教員を選ぶことはできません。したがって、時に児童・生徒は“担任ガチャ”として、その状況を諦めざるを得ないこともあるわけです。児童・生徒がそのような諦めを持たなくするためにも、常に教員側が「なぜ自分が?」を考えておく必要があります。児童・生徒の貴重な時間を教員としてどう関わるか?自分が関わることで、児童・生徒にどのような影響が生まれ、どのような結果をもたらすのか?「なぜ自分が」という観点を持っていれば、何か良くないことが起こった時でも、生徒のせいになどすることなく、教員としてやるべきことが明確になり、本当の意味での「児童・生徒のため」に行動ができるのではないでしょうか?そしてその行動こそが、教員として児童・生徒たちにとって本当に必要な存在になれることにつながると思います。
生徒と向き合う出発点は『自分を知ること』
教員として本当に「生徒のために」なりたいと思っているのであれば、まずは自分自身のことを本当に理解することから始めてみてはいかがでしょうか?
自分の好きなことや嫌いなこと、得意なことや不得意なこと、さらにはこれまで生きてきた中で、自分の喜怒哀楽の感情が何がきっかけでどんなタイミングで最高潮に達したかなどを、同僚や友人などと対話をしながら言語化した上で、「なぜ自分が?」を考えることから始めてみることをオススメします。
手前味噌ではありますが、拙著『自分まるわかりチャレンジ』では、生徒たちとの向き合い方も含めて、いくつかの事例を紹介しながら、「なぜ自分が?」を考えるヒントもあるかと思いますので、気が向いたらポチってみてくださいね!
最後に(まとめとして)
本当の意味で児童・生徒のために必要な教員となるには、日々の実践の中で「なぜ自分が」という問いを持ち続けることだと思います。それは時に厳しく、時に自分自身の否定すら生まれるので、もしかすると不安を伴う道のりかもしれないです。しかし、この問いこそが、結果的に持続可能な教育の実現への第一歩となるのではないだろうかとも思っています。
生徒たちの未来のために、私たち教員一人一人が自らの存在意義を問い続けていくことを願って。
追伸
僕が日頃思っている「誰のために」「何のために」「なぜ今なのか」「なぜ自分が」
誰のために
これからの未来を生きる児童・生徒のために
何のために
若さという才能と溢れるばかりの情熱を持った児童・生徒の情熱を解き放つために
なぜ今なのか
若さという才能は日一日と目減りするものだから
なぜ自分が
学力だけで判断してしまった生徒の将来を捻じ曲げることに加担してしまったかもしれない後悔を持っている自分だから気がついたことがある。