「With 分散登校」から「After 分散登校」へ
CAP高等学院の佐藤です。
緊急事態宣言が解除され、学校も動き始めました。その流れの一つが「分散登校」。先生方の中には、「やっと生徒に会えた。」「これで授業ができる」と喜んでおられる方も多いと思います。私自身、久々に生徒に会えるとなったら、ずっと笑顔になることでしょう。やっぱり生徒と会って直接話ができるのは、本当に嬉しいことです。
しかし、聞こえてくる話は、ちょっと違っています。東京都の区立中学校に通う子からは、「分散登校のせいで、先生は同じ内容の授業、1日3回もしなくちゃならない。先生の仕事が増えて大変そう」という声がありました。
また、ある私立の中高一貫校の先生からは、「40分の授業を前半と後半に2つに分け、半分にしたクラスに同じ内容を実施している」という話も聞きましたし、「25分ずつに分けた授業の前後に生徒たちがすれ違うのを避けるために、移動に気を使わなくてはいけないので、実際はパソコン立ち上げて、少し話しておしまいな感じ」という感想もありました。その結果、オンラインで授業をしていた時よりも、むしろ授業が進まなくなってしまったということも起こっています。
さて、皆さんは分散登校に何を求めているのでしょうか?
地元の公立小・中学校に通っている子供たちなら、登下校時間もまだ短いので、もしかしたらそれほど気にならないのかもしれませんが、私立学校や公立高校に通っている子たちは、登下校時間も結構かかっているはず。例えば片道1時間の通学時間を要する生徒が、午前中のみ、しかも「三密」を避けるために、時間差の教室移動時間がたくさん設けられ、休み時間に友達同士で話すことも許されない、昼食時間も黙々と食べることを推奨される。禁止や制限の中で、無理矢理授業を入れ込み、下校させる分散登校に一体どれだけの意味があるのでしょうか?
オンラインでは得られないことの一つとして「偶然の出会い」があります。例えば廊下ですれ違った時に、他のクラスの友人や先輩・後輩との間で生まれる何気ない雑談。その時思い浮かんだ感情を共有するために行う授業中のメモ回し。親には聞かれたくはない先生への相談事。学校現場でないとできないことがあるのは間違いない。
しかし、偶然を生み出すためのチャンスが様々な禁止事項や制限で奪われているのではないだろうか?
やってみないとわからないことなのは間違いないので、もしかしたら今は「With 分散登校」なのかもしれない。しかし、今の分散登校に授業を入れ込むことは結構無謀なのかもとも思う。
「After 分散登校」に描いているものはどんなこと?Before コロナと同じ学校の風景?同じ風景ならば、「今をなんとか乗り切ればいい」と思っているかもしれない。しかし、人の気持ちは移ろいゆくもの。新しい気持ちが芽生えた子たちに「今まで通り」と訴えて、果たして納得してもらえるのだろうか?
6月9日付の日経新聞には、仮想空間に関する記事があり、バーチャルキャンパス上では、それぞれが作成したアバターが偶然に出会い、その場の会話を楽しむことも、表現されている。
リアルの学校でしかできないことが、オンライン上でも急速に再現されている。今後5Gが普及し、ホログラムがもっと汎用性のあるものになれば、自宅にいながら、学校にいるかのようにバーチャルな友達と普通に会話し、廊下ですれ違う感覚も味わえるかもしれない。
落合陽一氏は2015年に「Fairy Lights in Femtoseconds」という技術で、空中にレーザーを照射。空気分子をプラズマ化することで、妖精の3次元像を描き、指で映像に触れると、静電気のような触覚が得られることを表現した。触覚をデバイスで表現することを、すでに5年前に発表している。今の遠隔会議システムでは、そこまでの解像度を求めることは容易ではないが、少なくとも、リアルで感じていた人の「温もり」みたいなものを再現することも、すでに可能な時代に入りつつある。
テクノロジーは、我々がリアルでしか提供できないと思っているものを、バーチャルで提供できることを確実に可能にしてきている。つまり、これまで学校に描いていた「ノーマル」を、これから先の学校に当てはめるわけにはいかない状況になってきている。
だからと言って、「学校は不要」と言いたいわけではない。「学校はやはり必要!」というためには、これまでの常識の上で成り立つものとは違う「ニューノーマル」な学校を、教育の当事者である、学校管理職・教員・児童・生徒・学生・保護者が本気で考えていく必要があるのではないだろうか?
個人的な意見ではあるが、教育は国の根幹をなすものだと思っているし、教育に明るい兆しが見えれば、日本もまだまだ捨てたもんじゃないはずだ。だからこそ、「After 分散登校」を見据えた教育を考えていきたい。