エターナルライフ第11話 秋 美里
秋は急にやってきて山を塗り替えた。
落葉樹達は木の葉を赤や黄やセピアに変え、それらはやがて地面に落ちてふかふかの絨毯になった。
彼が通院で留守の時、ひとりで散歩に出た。二キロほど西へ歩くと一面ススキの原っぱがある。そこを目指した。
サクサクと落ち葉を踏みしめて森を歩いて行く。赤い実をたくさん付けた木の上を、パンパンに頬を膨らませたリスが渡っていく。キノコもよく見るけど、どれが食べられるものか、私にはよく分からない。
森を抜けると見晴らしのいい高台に出た。
秋の短い陽は既に西に傾いて、柔らかい日差しの中でススキが風に揺れていた。空気が澄み切っていて、遠くの山々まではっきり見える。
私は持ってきたスケッチブックにその風景を描いた。
帰りの森の中はもう薄暗くなってきて家路を急いだ。
やっと家が見えて安心したとき、藪の中からガサガサと音が聞こえた。
何? 誰かいる? 恐る恐る近づいてみると、突然大きな熊が姿を現した。思わず私は叫び声を上げた。逃げようとしたけど、足がもつれてその場に倒れてしまう。熊は立ち上がって咆吼をあげ、ゆっくり近づいてくる。
その時、彼が家から走り出してきた。
「おーい、こっちだ!」
熊の気を引いて逆方向に走り出した。熊はすごい勢いで彼を追う。お願い、やめて!
私は見ていることができなくて目をつぶってしまう。次の瞬間、銃声が響いた。
私はあまりの恐怖に茫然自失してしまった。家に帰っても何もできず、彼が作ってくれた食事も喉を通らなかった。
「この時期、熊は冬眠の準備でたくさん食べないといけない。だけど、今年はどんぐりが不作みたいだから、こんなところまで降りて来たんだろう。あまり一人で出歩かない方がいい」
「銃なんてどこにあったんですか?」
「そこの納戸さ。いつも鍵をかけてある。盗まれたら大変だからね」
「免許持ってるんですか?」
「もちろん。持ってないと手に入らない」
「狩りをするんですか?」
「そう、もうすぐ解禁になる。俺の腕は百発百中だ。急所を仕留める自信が無ければ撃たない。苦しまないように即死させる。さっきの熊も十分引き寄せてから額を撃ち抜いた。熊は手負いになると危険だからね」
狩猟が解禁になると彼は私を狩りに連れ出した。私は行きたくないって言ったのに、無理やり。
動物を殺戮するところなんて見たくない。私の足取りは重かった。
「何を狩るの?」
「ウサギでも撃つか」
「やだ、そんなの」
「なんで? 美味いんだよ。ウサギの肉は」
「食べるの?」
「そうさ。命を奪っといて食べないって法はないだろう」
「いやだなあ。私もう帰りたい」
「ウサギを食べることで、ウサギの生命は俺たちの肉体と魂の一部となって生き続けるんだ」
彼は立ち止まって続けた。
「スーパーで売っている牛や豚や鳥だって、少し前までは生きていたんだ。肉の断片として綺麗に包装されて、かつての姿を連想できないようにして商品になっているだけだ。俺たちはその生きもの達の命を奪って生命を維持している。だから感謝を忘れてはいけない。俺たちに捧げられた命に」
「だけど…」
「そんな思いを強くするようになったのはブラジルで狩りを教えられた時からだ。それまでは売られている肉は単なる商品としか感じることができなかった。その先まで想像力が働かなかった」
彼はまた歩き出す。雲間から朝の太陽が顔を出し、すっかり葉を落とした木々が長い影を落とした。
「大丈夫だ。前にも言ったけど、俺は急所を外さない。その自信が無ければ引き金を引かない。ウサギは何も感じずに天国に行けるはずだ」
猟場に陣取ってウサギを待っていたが午前中は現れなかった。私たちは用意してきたお弁当を食べて、場所を移動した。このまま出てこないといいな。ウサギさん。
午後、遠くの草むらが動いて彼が銃を構えた。でもそこから出てきたのは尻尾がふかふかしたキツネだった。彼が銃を下ろす。キツネは美味しくないのだそうだ。良かったねキツネさん。
その後、ウサギは何度か姿を現したけれど距離が遠すぎて断念。
急に冷たい風が吹いてきて空がかき曇った。
「まずいな。一雨来るかも知れない。帰ろう」
結局一発も撃たずに狩りは終了した。良かった。
遠くで雷鳴を聞きながら、私たちは家路を急いだ。でも途中で大粒の雨がバラバラと降り出した。私たちは大きな木の下でしばらく雨宿りをしていたけど、雷雲はどんどん近づいてくる。
「行こう、この下にいると危険だ。これを着なさい。雨を通さない」
彼は着ていたトレッキング用のジャケットを私に掛けてくれる。私はブカブカのジャケットの袖を通してフードをかぶった。彼の体温が残っていて暖かかった。
激しい雨の中を私たちは歩いて行った。閃光が走る。空が裂けるような雷鳴。近くに落ちたかも知れない。私は彼にしがみつきながら必死に歩いた。風も強くて寒い。
家までもう少しというところで、彼に異変が起きた。足元がふらつき、ろれつもうまく回っていない。
どうしたの? 彼を支えて少しずつ前に進んだ。だけどとうとう動けなくなって座り込んでしまう。
身体は激しく震えている。低体温症かもしれない。
「どうしたの? 立って」
「先に、帰れ」
「何言ってるの! 立つのよ!」
私は着ていたジャケットを脱いで彼に着せた。
彼は銃を杖代わりにやっと立ち上がり、私の肩を支えにやっと歩き出した。激しい震えは治まらない。ごめんなさい。私のために…。
何度も転びながらやっと家にたどり着いた。
電気がつかない。停電のようだ。
棚にランタンがあったはずだ。真っ暗な部屋の中をいろんなものにぶつかりながら、やっとランタンに火を付けた。
そうだ部屋を暖めないと。でもファンヒーターは停電だと使えなかった。どうしよう。
玄関で倒れている彼の靴を脱せた。脇の下を支えてずるずる引きずって家の中にあげた。
意識が朦朧としている。このままじゃ危ない。ぬれた衣服を脱がさないと。だけど彼は重いし、濡れている服はうまく脱がせられない。はさみで切って破いた。
乾いたタオルで身体を拭いて、やっとの思いでベッドに上げた。そこで気がついた。彼の身体は古傷だらけだ。それも生半可な怪我じゃない。この怪我は一体?
お願い死なないで! 彼を暖めるものは何か無いの?
そうだ、昔何かの本で読んだ海難事故の話を思い出した。江戸時代に御宿沖で沈没したメキシコの船の乗組員を村人が総出で救出した。その時、海女達は自らの体温で遭難者の身体を温めた。
私は着ているものを全部脱いでベッドに潜り込んだ。彼の身体は氷のように冷たい。お願い、死なないで!私は泣きながら彼の身体を抱きしめた。
外で鳥たちが鳴き始めた。朝日が窓から差し込む。
彼は静かに寝息をたてている。体温は戻っている。もう大丈夫だ。
起きなきゃ。このまま彼が目覚めたらびっくりしちゃうよね。
でももう少しこのままでいたいな。私は少し身体を下にずらして彼の肩に額を押し当てた。その時、彼がこちらに寝返りを打った。
熱いものが私のおなかに触れた。どうして? 寝てるよね。生理的なもの? それとも…。
私はその熱いものをぎゅっとおなかに押し当てた。私の身体の奥からも熱いものが込み上げた。