国分酒造 焼酎イノベーションの系譜(6) -『蔓無源氏』
【蔓無源氏】
2006年10月 原酒発売
2009年10月 26度発売
大正期に使われた芋を探し求め、
見つかった100年前の品種「蔓無源氏」を使用した
『大正の一滴』の深化ヴァージョン。
『大正の一滴』を世に出した後、安田は大正期の原料芋がいまとは違っていたことに気づく。製法だけでなく、原料も当時使われていたもので再現したいと、幻の芋を探し歩いた。
そして、鹿児島県農業試験場で保存されていた「蔓無源氏」の苗を分けてもらい、霧島市の農家・谷山秀時氏に栽培を依頼。紆余曲折ありながらも、2006年3月に完成を見た。
大正時代の造りは再現したが、芋が当時のものではないことに安田は気づく。
その気づきが、ほぼ絶滅状態にあった芋「蔓無源氏」を復活へと導いた。
大正時代の造りを再現した『大正の一滴』。ところが、当時と現在のさつまいもは品種が違うことに、安田は気づいた。
現在、芋焼酎造りに使われる最もポピュラーな芋”コガネセンガン”は、昭和41年に品種登録されたもので、もちろん、大正時代には存在していない。『大正の一滴』も、”コガネセンガン”を使って仕込んでいる。
大正時代の芋を使って『大正の一滴』を造りたいという想いから、芋探しが始まったのだった。
2003年7月、鹿児島県農業試験場(現:農業開発総合センター)に足を運び、ほぼ絶滅状態にあって品種保存のための種芋だけを栽培していた「蔓無源氏」の芋の苗を、10本だけ分けてもらうことができた。
その足で、芋農家・谷山秀時さんのところへ赴き、復活を託した。谷山さんの努力のおかげで、「蔓無源氏」の芋は3年がかりで復活。2005年秋、3.5トン収穫することができて、早速仕込みに使った。
造ってはみたものの、『大正の一滴』と差が出なかった初年度の仕込み。
復活させた芋農家の谷山氏に栽培を断るが、ある酒販店の意見で一転再開に。
国分酒造では1本仕込むのに9トンの芋が必要になるため、不足の5.5トンは”コガネセンガン”を使った。
『大正の一滴』と同じ手法で仕込み、上々の出来に仕上がった。
しかし、初年度は「蔓無源氏」以上の数量の”コガネセンガン”を使っていることもあり、『大正の一滴』との味の違いをあまり感じることが出来なかったのである。
今後「蔓無源氏」の芋を使って仕込みを続けるべきかどうか迷った末、2006年3月、谷山さんに今後の「蔓無源氏」の芋の栽培を断ってしまったのだ。
栽培を断ってから間もなく、ある酒販店さんが国分酒造に来て、この焼酎の試飲をしてもらうと、「これは絶対に続けるべきだ」と諭された。
すぐさま谷山さんに連絡してお詫びに伺い、「蔓無源氏」の栽培を改めてお願いしたのである。
「蔓無源氏」の生産量が増えれば増えるほど、深まる味の差。
2008年以降は、全量「蔓無源氏」での仕込みが実現。
「今から考えると、この頃は焼酎がまだまだ売れている時期で、苦労して『蔓無源氏』を復活させた谷山さんの心情も顧みず断ってしまい、自分自身驕りがあったと反省をしている」と笹山は語る。
このような紆余曲折があった末に、2006年10月、原酒での発売にこぎ着けることができた。銘柄名は芋の名前と同じ『蔓無源氏』。
さらに谷山さんの努力のおかげで、「蔓無源氏」の芋の収穫量は年々増え、比率が高まるに伴い、『大正の一滴』との味の違いも明確に出てくるようになった。
そして、2008年以降の仕込みでは”コガネセンガン”をブレンドすることなく行い、以降「蔓無源氏」100%で仕込むことがついに可能となったのである。
小林:「蔓無源氏」ってさ、安納芋の親に当る品種と聞いてね、食べても美味しいだろうと想像したんだけど。焼き芋にすると、オレンジ色で僅かに柑橘系の香りがしたのをはっきりと覚えている。
深い甘味とコクがあって、入荷すると毎日の様に焼いて食べてんですよ。
「きっと私ほど焼き芋にして食べている酒屋はいないだろう?」となんて自負してんだけどさ、焼き方も”こうしたら?”と工夫を凝らして辿り着いたんだよね。
それはね、焼き芋は”普通水分を飛ばす事が肝心”と言う常識にとらわれないで、綺麗に洗った後キッチンペーパーを水で濡らし、芋を巻いて更にアルミホイルで包みゆっくり焼くわけ。
すると、ねっとりとした触感で繊維も切れ裏ごししたキントンの様になるのね。
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笹山:2003年7月、鹿児島県農業試験場に足を運んで、「蔓無源氏」の苗を10本分けて頂きましたが、その際、他に2種類の芋の苗も頂戴したんです。「農林2号」と「隼人いも」です。
実はこの時、安田にとっての大本命の芋は「農林2号」だったんですよ。安田が子供のころ、芋焼酎を造っていたおじさんの家で、まん丸とした「農林2号」をよく目にした記憶があった、とのことでした。
谷山さんのコガネセンガン畑の片隅に植えられた、3種類の芋のうち、何とか生き残ったのは「蔓無源氏」だけでした。ただ、1本の苗からできた芋は1個だけ。10本の苗から収穫できた芋は、たったの10個だったんです。
一方、「農林2号」と「隼人いも」は全く育ちませんでしたね。植え付け時期が遅いことや、コガネセンガンに成長を遮られたことが影響したと考えてます。
小林:なぜ「蔓無源氏」の焼き芋の話をしたかというと、焼酎となった『蔓無源氏』がさらに『安田』へと進化したわけだけど、香り焼酎の原点となる素地があったんだなあ、と思ったわけです。
その芋から生まれた『蔓無源氏』は焼酎として勿論うまいわけで、この蔓無源氏の原酒を好む方もいれば、26度を割水し前割でお燗で飲まれるお客様も多いんだね。
国分酒造の焼酎の中では、一番力強い作品と言って良いでしょう。
『大正の一滴』を発売した当初「将来は全量蔓無源氏芋で造りたい」と聞いた記憶があるけど、県の試験場から僅かな数の苗を譲っていただき、毎年増やして約10年の歳月をかけた力作ですよ。
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笹山:結果的に「蔓無源氏」の種芋が10個だけ残りました。
その後、いろいろと調べてみると、「農林2号」は、昭和17年に品種登録された芋で、大正時代には存在していなかったことが分かりました。
一方の「蔓無源氏」は、明治40年(1907)に鹿児島県で発見された在来品種で、大正から昭和初期にかけて盛んに栽培されていた芋でした。
結果的に「蔓無源氏」だけが生き残ってくれたことに、感謝です!
初年度は種芋が10個しかないため、谷山さん自身も、食用などで試すことができず、全て種芋に回しました。
2年目は10個の種芋から出てきた苗を植え付け、数十キロ程度の収穫があったようで、2年目に初めて食べてみたら、ねっとりとした甘さに、谷山さんも驚いたようでした。
(7)に続く。
一部画像は「めぐりジャパン」さんの記事より承諾を得て転載させていただいております。
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