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或る「糸島の醤油蔵」伝 カノオ醬油(1) 醤油蔵のGeopolitik.


(文中、敬称略)

■地醤油の”生存圏”についての想い出。

20年前のこと、正調粕取焼酎の店頭化状況を確認すべく、友人と二人、福岡都市圏から佐賀県北部へと、各地の酒販店を巡るドライブ行脚に出発した。正調粕取焼酎を探し、捕獲し、保存するためであった。

道中、唐津市まで来たところで、友人が「ついでに伊万里市へも行ってみたい」と言い出した。こちらも異存はなく、さらに足を伸ばすことに。

さて、伊万里市内のとある酒販店に入ってみて、いたく驚いてしまったのだ。店頭に福岡市は早良区のDeepSouthとでもいうべき東入部に蔵を構える地醤油『ヤマタカ』の一升瓶が置かれていたのである。

2002年8月、佐賀県伊万里市内の酒販店で発見した福岡市早良区の『ヤマタカ醤油』。
醤油蔵の位置関係

上記マップをご覧いただくと解るが、

①早良区南部の地醤油が、筑紫山地の北側を這う唐津街道に沿ってなのか、50㎞ほど離れた伊万里市まで分布していた。
②伊万里市へより近い糸島市の3軒の醤油蔵の商品は見かけなかった。

という点で、その店頭化の事実にとても興味を覚えたのだった。


■地醤油の、ひとつの原風景。

私事で恐縮ながら、家内の実家は、『ヤマタカ醤油』がある東入部と早良区北部の中心地・西新を南北に結ぶ線のちょうど真ん中あたりにある。

現在の福岡市営地下鉄「西新駅」からヤマタカ醤油までの距離が直線で約7.3㎞。大まかに「西新駅←(3.6㎞)→実家←(3.6㎞)→ヤマタカ醤油」という位置関係だ。

家内に、かつて実家でどんな醤油を使っていたかを訊ねてみたところ、それは西新に蔵があった『松十醤油』で、お爺さんが自転車の荷台に一升瓶を載せ売り歩いていたという。しかし行商がいつしか来なくなってしまい、近くの商店に置かれていた『ヤマタカ醤油』に切り替えた、と。

ここで、家内が子供だったころ、半世紀前の1972年4月に国土地理院が撮影した早良区の航空写真で俯瞰してみたい。

国土地理院撮影の1972年4月の早良区空撮を合成したもの。
国土地理院「地図・空中写真閲覧サービス」https://mapps.gsi.go.jp/
早良区北部、写真のちょうど中央あたりが「西新」。
早良区中部、写真のちょうど中央あたりが家内の実家。
早良区南部、写真の下から1/3の右側山沿いにヤマタカ醤油がある。

当時実家周辺は、小さな商店の寄り合い所帯が近くにポツンとあるだけで、田畑の中に集落が点在し、蛙の鳴き声が轟いて電話の声も聞こえないほどであったという。

そんな田んぼ脇の舗装されていない道を、醤油屋の自転車が駆け巡り、各集落を回っては商いに励んでいた。スーパーマーケットが進出する以前の庶民生活の一景である。

第二次大戦後、旧国鉄筑肥線から南側の宅地開発が進展し、さらに新幹線博多延伸が拍車をかけて、福岡市の人口は膨張し続けた。現在は早良区南部にまで住宅地が広がっているが、1972年当時はまだのどかな田園地帯が広がっていた。

さて、福岡市の名門・修猷館高校や西南学院大学が立地する文教地区である西新は、また早良区の商業の中心地・繁華街でもある。

そのため、醤油蔵は『松十醤油』(本店は早良区南部の田村に移転)の他に、『フクビシ醤油』(糸島市と隣接する福岡市周船寺に移転)が現在も営業している蔵として存在していた。

つまり、同じ早良区内でも南北3軒の醤油蔵が狭域で踵を接し、しかも数㎞の差で愛用する銘柄が異なるほど、地醤油とはその町丁や地域と密着していた存在、コミュニティの味だった、と言うと少々大げさだらうか。

飜って思うに。九州の大手である『富士甚醤油』『フンドーキン醤油』ならいざ知らず、福岡市南部の地醤油が伊万里市にまで”生存圏”を拡げていたことの理由とは何なのか、それを探ってみたかったのだ。

事実をいつか掘り下げてみたいと願いつつも、あっという間に20年が経ち、私の頭も白くなってしまった。


■地に根ざす醤油蔵のGeopolitikを探ってみる。

『ヤマタカ醤油』の遠方への伝播を目にしたことで、湧いてしまった地醤油への関心。

いろいろと調べている内に私の目に留まったのが、糸島市の西部・船越湾沿岸部に集中する3軒の地醤油蔵の存在である。

下記マップは、現時点(2022年)での福岡県の最西部となる糸島市の醤油蔵の所在地を示したもの。

地醤油蔵の分布としては、船越湾に面した沿岸の三つの漁港に、それぞれ一つの蔵が存在している。

北から、
・船越漁港:北伊醤油(1897年創業)
・加布里漁港:カノオ醤油(1889年創業)
・深江漁港:ミツル醤油(創業年は公式サイトに無く不明)
が半径2.3㎞ほどのサークル内に収まる。

狭域に集中する港町それぞれにある醤油蔵が、覇を競うという状況だ。

そこに地醤油のGeopolitik、地醤油地政学という視点を加えてみる。

つまり”地醤油を土地と不可欠の構成要素とする地理的歴史的有機体”として捉え、掘り起こしを図ろうというわけ。地醤油蔵の歴史とブランドと販売の生存圏がどのように形成されてきたのかを、垣間見ることが出来たらと思う。


基礎調味料である醤油と味噌は、家庭で代々受け継がれる味としてマーケティングでもスイッチングが難しいといわれる品目。さらに福岡県は、全国でも有数の醤油メーカーがひしめくエリアとされる。

それだけに競争はなおさら激しい。

大中小メーカーの生存圏の確保・拡大がせめぎ合う環境下、しっかりと地域に根を張って活躍を続ける地醤油蔵の歴史、商品の変遷、販路の推移、コミュニティとの繋がり、そのミッシングリンクを改めて紡ぐことができたらと願っている。


(2)へ続く。





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