或る「博多の醤油蔵」伝 ジョーキュウ醬油(2) -近代。日本の工業化とともに飛躍へ-
(文中敬称略)
1.明治から大正へと、拡大成長を辿る。
Q4.御社は、1925年(大正14)に諸味査定高2411石となり福岡県内において第3位を記録します。1926年(大正15)の合名会社化(松村久商店)は、生産規模の拡大に合わせた組織体制の拡充と考えてよろしいでしょうか。
近代に入って、楠屋醬油は大きく飛躍を遂げる。
『福岡県史』(通史編・近代産業経済・一、2003年)によると、安政期の推定石高は200石とされるが、維新後の1875年(明治8)に479石、1904年(明治37)に諸味査定石高で842石(県内21位)、1918年(大正7)に1419石(同11位)、1925年(大正14)に2411石(同3位)と着々と順位を上げていく。1935年(昭和10)にはついに出荷高7000石(1262.7㎘)を記録する。
生産規模の拡大が続く渦中の1926年(大正15)、個人商店だった楠屋醬油は、『松村久商店(まつむらきゅうしょうてん)』という会社組織となってリスタートした。
時枝本部長「鉄道とか炭鉱とか、ちょっと大きな企業さんと取引が出来るようになり、それと当主が商工会議所の議員になった。ま、対外的に個人商店から会社組織にしないといけなかったということもあったんでしょうね」
本部長の言葉にあるように、1925年(大正14)から門司鉄道管理局、炭坑の購買部などとの取引が始まることで大企業との折衝も増加したり、その4年前に三代目久吉は福岡商工会議所の議員にもなっている。
2.近代における、取引先を見つめてみる。
Q6.先の『福岡県史』には、明治末〜大正期の販売先として、地元はもちろん筑豊、北九州、長崎県や朝鮮半島まで広域に渡っています。販売先については、個人名が多く見られます。これらは各地域の米屋や酒販店などの特約店とみていいのでしょうか。それとも企業や炭鉱などの事業主が多かったのでしょうか。
実は先の会社組織化の最後に、時枝本部長から重要な話が飛び出してきた。これは蔵の近代における成長を支えた取引先に関わるポイントでもある。
時枝本部長「その当時、添加物というか・・・なんだっけ、(福田室長:サッカリン?)、サッカリンとか、一部では甘い醬油が流行った時期では・・・」
私ら3人は驚いてしまった。添加物や代用原料などを使ったりするのは、15年戦争期の統制経済下とか敗戦後の物不足と占領軍による原料統制があった時期くらいかと思っていた。しかし、大正時代にすでに甘味料を入れた醬油が出回っていたのだ。
カネ「今よりも、より甘い感じだったということですか?」
時枝本部長「今ぐらい、というかな。もともと醬油だけ再仕込みとか醬油だけだったんでしょうけど。加工費として添加物の品名が記載されている棚卸帳がありますね。双目砂糖とか水飴とかサッカリンとか甘草エキスなど甘い原料を仕入れたと出てくるんです。あと九州独自のトロリ感を出す片栗・布海苔など加えて配合していたのでは」
私「時期としてはいつ頃でしょうか」
時枝本部長「大正時代ですよ、当時の棚卸帳に書かれてます」
K君「その頃から味を作るようになったんですね」
時枝本部長「そうです」
福田室長「今みたいに醬油(完成品)として出していただけでなくて、醬油の元の”諸味”としても出荷していたんです。当時の記録を見ると、原料の諸味と一緒にサッカリンなどの添加物も出荷しているんですね」
『150年の歩み』には、1913年(大正2)の主な販売先一覧表を記載し、個人名で諸味を購入している相手を「諸味を融通し合う同業者」ではないとして、こう書かれている。
甘い醬油については、カノウ醤油さんの稿に出てくる宮崎県日南市大堂津は宮田本店さんの延べ15年貯蔵の醬油があまりに辛かった件(生揚げだった)で解ったのだが、超甘口とされる南九州の醬油も実は調製された甘さだったのだ。
五代目松村冨夫社長が『150年の歩み』に記した通り、「醸造の工程で甘い醬油が造れるわけはない」のである。
3.日本の近代化と、庶民生活と、ジョーキュウ醬油。
さて、販売先に北部九州各地の炭坑が多く見られるが、1901年に創業した官営八幡製鉄所と筑豊炭田という、明治日本の近代化を支えた工業・鉱業の地域的隆盛が、ジョーキュウ醬油の成長に大きく作用している。
『福岡県史』(通史編・近代産業経済・一)の第三節「醬油醸造業」でその経緯を詳述したのは、現在は慶応大学に在籍する井奥成彦教授である。
井奥教授は県史発行の後、2005年(平成17)に出版された『日本の味 醤油の歴史』へも「醤油の味のちがい」「福岡の醤油の歴史」という二篇を寄せている。
特に「福岡の醤油の歴史」は、『福岡県史』での記述をさらに濃縮したかのようなコンパクトな内容で、さらに新しい視点も付け加えられていた。井奥教授はジョーキュウ醬油の取引先についてこう記す。
そんな状況を彷彿とさせるエピソードが、ヤマの絵師・山本作兵衛翁の絵画集『筑豊炭坑絵巻 新装改訂版』にあった。タイトルは「売勘場」。
売勘場とは、炭坑事業主直営の購買店のこと。坑夫には現金を渡さず、鉱業所だけで通用するキップ・炭券という”金券”を支給して物品を購入させ、米など量り売りの場合には量目を誤魔化すという搾取が横行していた。
ジョーキュウ醬油が筑豊の鉱業所に納品していたのは上級品であるため、事業主や上級職員クラスが利用していたと推測される。しかし”さほど規模の大きくない、種々の商品を取り扱う食品問屋や雑貨商のような業者”の場合はどうだったのか。
福田室長「筑豊の業者さんにも、かなり諸味として出していたようですね。ま、特に筑豊の方は甘いものを好まれるので、そういう業者さんが調製して販売をされていたのではないかと」
売勘場や密売に使われた醬油は、地元の嗜好を知るブレンダーたちが仕入れた諸味と甘味料を使って調製したものを持ち込んでいたのではなかろうか。
私は北九州市八幡は製鐵所のお膝元で生まれたのでよく解るのだが、肉体労働で塩分と甘味が必要な筑豊の坑夫、北九州の工場労働者や港湾労働者たちに、濃く甘い醬油は好まれただろうと思う。
4.自家醸造の盛んな地勢と、販売エリアの広域化の関係。
Q8.全国的にも、九州は自家醸造の世帯数の割合が高かった地域とされます。ジョーキュウ醬油さんの販売エリアの広域化について、地元周辺住民(特に福岡市域周縁の農村部)の自家醸造の多さがなんらかの影響を与えていたのでしょうか。
この設問については、面談の最中では触れる機会が無かった。しかし『日本の味 醤油の歴史』の論考の中で、井奥教授がジョーキュウ醬油の販売先の広域化について下記のように述べている。この指摘は『福岡県史』でも共通して論じられている。
以下は、カノオ醬油さんの稿でも掲げた1909年(明治42)の都道府県別の自家醸造醬油人員ランキング。九州が上位を占め、比率は低いものの福岡でも8万8千を超える規模であったことが解る。
足元で需要を拡げるには障壁が厚い。そのため、圏外の需要を獲得するわけだが、広域に渡る取引先へ商品の供給をせねばならない。
5.商品供給と原料供給の拡大を支える、物流の大切さ。
そこで問題となるのは、流通チャネル、物流である。
前回カノオ醬油さんへのヒアリングでは、加布里港からの船による大量かつ効率的な商品の出荷が東屋政右衛門のような豪商を生み出す基盤となったのではないかと想像していたが、資料などが現存せず迷宮入りとなった。
Q7.出荷先として長崎県生月島や高島、小値賀、対馬鶏知などの離島も見られます。これら離島へのデリバリーについては、博多港から船便での直送だったのか、鉄道経由〜船便だったのか、記録や伝聞は残っていますでしょうか。
江戸時代、熊本県牛深の民謡「牛深ハイヤ節」は九州西岸を南北に行き来する廻船に乗って関西に伝播し、さらに北前船のルートに乗って北上し、果ては蝦夷地まで伝わった。下記の地図は、九州西岸でハイヤ節が北上した廻船の航路に、ジョーキュウ醬油の沿岸部や島嶼の販売先を重ねている。
まだ陸路が整備されていない時代、博多港からの出荷がジョーキュウ醬油の広域販売を可能にしていたと思っていた。鉄道開通以前、沿岸航路の寄港地は大きくは変わらなかったと思われるからだ。
これについては『150年の歩み』に記述があった。
さらに玄界灘沿岸でのデリバリーについて、興味深い話を伺うことができた。
私「博多港から船に乗せて運んだのか、陸路は鉄路との関係はどうだったのかとか、いかがですか?」
カネ「まあ、北前船の話ですよね、行きはそのルートに合わせた荷物を載せたり、帰りは逆向きのルートに合う荷物を載せたりという」
福田室長「ですから、ま、原料なども、あの津屋崎とか宗像のあたりでそこの小麦を博多まで船で持ってきて、逆に醬油を積んで津屋崎に向かうと。津屋崎というのは港町としてかなり栄えたわけ、ですけど、鉄道が通ってからは衰退するわけですよ」
カネ「あ、そうか!」
三人「なるほど・・・」
カネ「我々からすると、なんか県北部って麦も作ってて大豆も作ってるけど、産地としては比較的小さくてですね、生産量の多い県南の方から持ってくるイメージだったんですけど、当時は宗像あたりで出来た原料を引っ張ってきて商品を逆に出荷するルートだったんですね」
福田室長「鉄道が出来てからは、熊本の大豆とか小麦を使ってるケースはありますね。やっぱり、物流っていうのは大事ですよね」
近代に入ってのジョーキュウ醬油の飛躍を、時代に即した物流が支えていたのだ。
◇ ◇ ◇
1935年(昭和10)に工場の敷地面積が1000坪、出荷高は7000石を突破して最盛期を迎えた三代目久吉率いるジョーキュウ醬油。4年後の1939年(昭和14)には久吉が家督を四代目半次郎に譲って引退し、ひとつの時代が幕を閉じた。
その頃には日中戦争の激化で庶民生活が段々と切迫してくる時局と相成り、さらに2年後の1941年(昭和16)、ついに大日本帝國は米英との大戦争に突入することとなった。
19世紀、江戸から明治への変わり目にあっては「筑前竹槍一揆」の被害を免れたジョーキュウ醬油だったが、20世紀、第二次世界大戦の狭間では大きな試練が待ち構えていたのである。
(3)に続く。