或る「早良の醤油蔵」伝 ヤマタカ醬油(4) -その醬油太陽系、誕生の深層を探る-
(文中敬称略)
1.”ヤマタカ太陽系”、Big Bang発起年の確定。
ちょうど水汲み場から事務所に向かう際に、髙田市郎社長が顔を出された。ヤマタカ醤油の五代目当主である。
国道に面した新母屋内にある事務所で早速お話を伺うことにした。まずは、【各資料で記載が違う創業年の確認】から。
私:「創業年が資料によって記載が異なります。たとえば明治33年(1900)とあったり。正確な創業年はいつでしょうか。
社長:「その明治33年というのはたぶん『早良郡志』からだったと思いますね。『早良郡志』はうちにもあったんですけど、ちょっとどこかに行っちゃって。私も記憶にあるんですけど、私たちの言い伝えというか、それでいくと、明治29年(1896)なんですよ」
私:「では明治29年で確定ということでよろしいですね」
これまで福岡県醬油工業協同組合の福岡地区組合員名簿を元に創業年の順に整理した下記のリストは、ヤマタカ醤油を1900年(明治33年)としていたが、改めて順番を入れ替えた。
リストを見て解るように、ヤマタカ醤油創業の時期というのは、大日本帝国政府が日清と日露両戦争の戦間期にあって軍備拡張や国費確保のために増税や課税の対象を増やしていた時局であった。
2.ついに明かされる、蔵開闢の意外な発端。
製造免許の申請と交付で取り込みを図るとともに、自家醸造にも課税していた時代なのだが、【正式な創業以前のヤマタカ醤油はどんな状況】だったのだろうか。
私:「それで、1896年の”公的創業”以前の、蔵の歴史について、なにか記録や伝聞は残っているでしょうか。自家醸造されていたとか」
社長:「記録とかは残っていないんですけど、たぶん、ここで仕込んでいたはずなんですがね。以前、須崎(博多区)の方で醤油蔵を復活させたという話が新聞に載ってたんですが、えーと、誰だっけ?(専務「奥村さん?」)、そうそう奥村さん、奥村さん。須崎とかあのあたりでは奥村姓の醬油屋さんがけっこう多かったんですよ、奥村家の血筋というのがあって」
私:「ああ!古い記録にもありますね」
意外なところで話がリンクしてきた。(2)で取りあげた『大日本醸造家名鑑』のページだが、下段「福岡市ノ部」のところを見ると「奥村姓」が6軒、「早良郡ノ部」に1軒と都合7軒の奥村姓の醤油屋があったことが解る。
博多奥村醬油公式サイトの「奥村家について」を見ると、
とある。『大日本醸造家名鑑』の中では「中島町 奥村利助」が本家になるのだろうか。とにもかくにも、黒田藩福岡移封以来の歴史からして、奥村家は博多醬油業界きっての名家と言っていい。
社長:「なんでうちの先祖が醤油屋を始めたかというと、私も直接聞いたことはないんですけど、私の姉がよー話しよったのは、先祖が『須崎の親類が醤油屋をしよって羽振りがいいけん真似しようか』みたいな話でね(笑)、それで醤油屋を始めたということを言い伝えで聞いてますね。でも、実際には親戚でもなんでもなくて、須崎の醤油屋さんに行って見てて、いい商売やないかと考えて始めたんやないか、と思ってます」
ヤマタカ醤油初代は、博多区は上須崎町(現:須崎問屋街)にあった奥村千吉の蔵の繁盛ぶりを見て、「俺もいっちょやっちゃるばい!」と意気が上がったのだろうか。
◇ ◇ ◇
さて、その初代なのだが、一体誰なのか。【髙田家の系譜】を伺ってみる。
私:「髙田市郎社長は五代目でらっしゃいますが、資料によって判明している代表者名は、髙田市太郎、髙田太郎のお二人です。順番でいきますと、髙田市太郎さんが初代になられるんでしょうか」
社長:「いいえ。市太郎の前に與一郎というのがおって、その前にもう一人おるんですけど、醤油屋を始めたのは與一郎です」
私:「その與一郎さんが初代で、市太郎さんが二代目、太郎さんが三代目でよろしいでしょうか」
社長:「ええ。たぶん創業からまだ120何年かなんですが、與一郎と市太郎というのはほぼ同時期に蔵を始めたっちゃないかなと思いますね」
私:「それで三代目の太郎さんと五代目の社長の間にもうお一方いらっしゃるかと思いますが」
社長:「”あきら”というのが居りますね。私の父です。字はほがらかという『朗』ですね。晃太郎は違うんですが、私は市太郎から名前をいただいて”市郎”と。私の祖父は”太郎”ですね、郎の字はいただいてると」
ヤマタカ醤油五代は「與一郎→市太郎→太郎→朗→市郎(現社長)」となり、将来は晃太郎専務が六代目を襲名される。
3.かつての原料の供給状況、出荷量の拡大時期について
続いて、かつての【原料の仕入れ先など供給状況】を訊ねてみた。
私:「明治、大正、昭和にかけての、それぞれの時代の原料供給地などについて、なにか記録や伝聞など残っていますでしょうか」
社長:「いやぁ、そういう昔のことは聞いたことはないですね。たぶん、戦争中は配給とかがあって大豆とか小麦を交換して入手していた時期はあったのかと思います。早良のこの辺は、今は米とか、キャベツとか作ってますけど、昔は裏作で麦を作ってたりしてたと思うんで、戦争中は配給なんで物々交換していたんじゃないかと思いますね」
私:「はい」
社長:「それと、塩というのは、醬油造りでは大事なところなんですけど、ご存じのように醬油屋の発祥の地というのは海の近くが多いんです」
三人:「ほぉ」
社長:「やっぱり昔は塩田があったから、塩が手に入りやすかったというのはあります。うちなんかは、親父から聞いた話では、姪浜か生の松原あたりまで海岸に行って、塩水汲んで、馬車曳いて積んで帰ってきよったと」
三人:「へえ・・・」
社長:「いま福岡の組合は会費というか、今は石じゃなくて㎘やけども、その金額を決めるのは、生揚げの出荷量と後は塩の使用量なんですよ、塩の量でも年間の会費が決まって払っているんですけど。塩というのは昔は専売でね、大量に取ればその分安く入ってきたようで、それで汽車で塩が入ってきて、皆で分け合っていたという話を聞いたことはありますけど。それで塩の取引量で、一組合員あたりの年会費が決まっていたという話を聞いてます」
◇ ◇ ◇
【ヤマタカ醤油の出荷が急拡大を見せた時期】というのは、20世紀から21世紀に移り変わる時期(後述)と、大正末期から昭和初期の大きく二度あったのではと推測している。まずは大正の話。
私:「『早良郡志』では、1921年(大正12)に石高151石と記録されているんですが、4年後の1925年(大正14)の『大日本酒醤油業名家大鑑』では400石とあります。僅か4年で2.6倍という拡大を見せましたが、その理由について記録や伝聞は残っていますか」
社長:「うーむ、私は聞いたことはないですが、そうですねえ・・・その頃って人口的にはどうなんでしょうね。人口が急に増えたとか・・・」
私:「そんなには増えていないんですよね」
社長:「もしかすると、先ほど話があった家庭で自分の消費分は自分で醬油を造るということが段々と無くなってきて、専業で造ってるところにお願いすることになってきたのかも知れないですね」
この大正期の急拡大については、理由は不明である。
◇ ◇ ◇
4.20年前に抱いた疑問を、やっと解明する!
私個人としては、今回のヒアリングの最大のテーマである。20年前に福岡の地醤油について調べたいと思った疑問に、どういう事情が隠れていたのか。私としては長年喉に刺さっていた鯛の骨がやっと抜けるのだ。
私:「20年前なんですが、正調粕取焼酎の店頭化状況を調べるために、伊万里市まで足を運んだ際、市内の酒販店にヤマタカ醬油があるのを見て驚いたんです。それが地醤油に興味を持つキッカケになりました。20年後に、それを解明する日がついに訪れたわけです」
一同:(笑)
社長:「(店の写真を見ながら)ああ。私、こちらに配達に行ってましたよ。ははは」
私:「どうして入部のヤマタカ醤油が伊万里まで広がっていたんですか?」
社長:「えーとですね。もともと、業務用じゃなく個人の消費で、あの、お客様を確保していたと思うんですけど、やっぱり昔で一番消費量が多いのは、炭坑ですよね。だから飯塚とか行けば労働者がたくさん居るんで消費も増えると。伊万里も産炭地だったんですね」
私&カネ:「やっぱり、炭坑に繋がる・・・」
福岡県だけでなく、佐賀や長崎でも、明治から昭和にかけて多くの炭坑が開発されていた。伊万里市の楠久炭坑(1917年(大正6)開坑)では、往時に楠久津を含む山代町の人口は2万人に達して、多くの娯楽設備が作られたそうだ。それくらい賑わっていたのである。
社長:「それと同時に、伊万里出身の方がこちらに、飯倉に住んであったんですけど、社員として来てまして、その親戚とかを頼って販売を拡げていったというのはありますね」
私:「伊万里以外では販売域どこまで広がっていたんですか?」
社長:「九州で、直接足を運ぶところでいくと、大村ですね、長崎の。出張所を何年か前まで置いていたんですよ。佐世保とかも行ってましたね。先代の時代です」
私:「伊万里とか大村とか西側のお話ですが、逆の東側は?」
社長:「東でいうと、北九州があんまり無いんですよ。途中でいうと、粕屋、宗像がちょこっとあるくらいでね」
専務:「いまだにあるのが小郡ですよね、販売店さんがあります」
社長:「それも小郡に専業で三箇所くらい居られたんですよ、私のところの醬油を生業(なりわい)として販売して下さるところが。今は一軒だけになりましたけど。そこもやっぱり志免や粕屋の炭坑で商店を出されてて、たまたまうちの醬油の味を気に入られて、売ってみようかとおっしゃられて今に至ってますけど」
私:「いうなれば、特約店制度と言ってよろしいんでしょうか」
社長:「はい、そうですね」
私:「ジョーキュウ醬油さんでも伺ったのですが、やはり炭坑との関係は深いんですね」
ヤマタカ醤油の場合も炭坑が絡んでいた。ヤマタカ醤油では地勢的に、姪濱炭坑をはじめとした早良郡内の炭坑への出荷ということが作用していると思われる。しかし、西九州、特に佐賀県や長崎県各地の産炭地への出荷が急拡大の理由ではないかと思えてきた。
◇ ◇ ◇
次に、個人商店であった時代から、現在では「髙田食品工業株式会社」と法人化されている。その【法人化の時期】について伺った。
私:「『福岡県醬油組合七十年史』の1947年7月組合創立時点での組合員名簿を見ますと、「早良郡」2名のうちに「高田太郎」とあり、当時はまだ個人商店だったとお見受けします。1962年に福岡県が出版した『福岡県製造業者名簿』では「高田食品工業株式会社」と記載されてるんですが、法人化は何年頃だったのでしょうか」(「高」の字は原書での表記)
社長:「そうですね、株式会社になったのは昭和の28年(1953)ですね」
私:「比較的早い時期と申し上げていいでしょうか」
株式会社化された1953年といえば約70年前、NHKがテレビジョンの本放送を東京で開始した、そんな時代の出来事である。
5.東入部にあった、もうひとつの醸造元の想い出
かつての入部村には、2つの醸造業者が存在していた。ひとつはヤマタカ醬油であり、もうひとつは日本酒の蔵元である。早良郡の資産家名鑑で入部村のトップとされた【清酒『松鷹』の「飛松産業(資)」について】、その想い出を語っていただいた。
私:「1962年に福岡県が出した『福岡県製造業者名簿』で、東入部321番地『飛松産業(資)』の名前が見られます。先ほど専務のご案内でお屋敷を外から拝見しました。とてもご近所という感じで改めて伺うのもなんですが、なにか想い出などございますでしょうか」
社長:「わたしどもはね、飛松(とんまつ)さん、飛松(とんまつ)さんってお呼びしていたんですけど、字図を見たら解るんですけど、あそこあたりの田んぼが飛松という名前だったんですね、それで飛松産業という名前をお付けになったんじゃないかな」
私:「なるほど」
社長:「それと、松ヶ根の井戸を見られたと思いますが、そこに老松神社というのがあって、道真公が腰掛けた岩もあるとか。湧き水がありますから、その水を仕込み水として使ったという話は聞いてましたね。水はね、割と良い水が出ると思いますね」
先ほど蛇口からいただいた”ヤマタカの名水”は美味しかった。東入部は菅公の故事来歴が語られるだけのことはある、水源の地なのだと思った。
社長:「私が小さい頃はまだ酒造りをされてましたね。子供の頃は奈良漬け用の酒粕をよく買いに行かされてましたよ。でも、たしか、同じ蔵元のI社さんと資本提携して、その直後に解消して酒造りを止められたと思います」
その後、旧飛松産業さんは社会福祉法人敬養会となって、屋敷の横に大きな特別養護老人ホームを建設し、現在はその運営に当たっていらっしゃるとのことである。
◇ ◇ ◇
温故知新とよく言われるが、自分が住んでいる早良に、食と生活の庶民史が展開されていたことを改めて知った。醬油の一滴に秘められた深く濃い歴史に、しばし想いを馳せてみたい。
Once upon a time In East-Irube.
(5)に続く