見出し画像

国分酒造 焼酎イノベーションの系譜(1)-笹山&安田コンビ結成前夜

国分酒造株式会社 ー笹山&安田コンビ「香り焼酎」挑戦の30年ー
2021年6月本編作成、2022年5月項目追加+加筆

時は、1950年代。
鹿児島県の焼酎業界は、零細蔵元が群雄割拠する時代だった。

しかし1960年代に入ると
国の法律「中小企業近代化促進法」が施行されたことで
蔵元の集約化による企業規模の拡大、経営の安定などが図られた。

いわゆる「協業化」である。

1970年7月、鹿児島県国分市および姶良郡の蔵元10社が、
「加治木酒造協業組合」を設立。

それが現在の国分酒造株式会社の原点となった。

笹山&安田 コンビ結成前夜 ー国分酒造株式会社・前史ー


1970年に発足した加治木酒造協業組合は、
多額の借金を抱えて経営危機に陥る。

1986年、製造免許の一本化に賛同した6社により
「国分酒造協業組合」として再出発へ。

笹山&安田コンビ・笹山 護の父、笹山健一郎は、京都大学への進学を諦めて高校卒業と同時に家業の蔵「関の露酒造」に入った。そして若干22歳で社長となる。

1970年、「関の露酒造」も含めた地場中小の10社でスタートした加治木酒造協業組合だったが、その後経営難へと陥り、多額の借金を抱えて離脱者も出る状態となった。

しかし健一郎は、焼酎造りの道でしか自分は生きていけないと、組合再建のために奔走する。

ついに、酒造免許の一本化で合意した組合員によって「国分酒造協業組合」として再出発し、健一郎はその初代理事長に就任した。

1986年10月18日、新生なった国分酒造協業組合から、今も残る定番『さつま国分』が発売されたのだった。

『さつま国分』発売時に南日本新聞に掲載された全頁広告

1986年の「国分酒造協業組合」の発足とともに、
安田宣久が蔵人として入社。
1992年には杜氏(酒造りの最高責任者)となる。

国分酒造協業組合の発足と同時に、ひとりの若者が職員として参加してきた。それ以降の国分酒造の発展を支えた、杜氏・安田宣久である。

その経緯を安田自身に語ってもらった。

『地元の大学を卒業後、県内の薬品卸会社に就職したが、”もの造り”への思いがどうしても絶ち難く、その会社を辞め、新しい仕事を探していた。

ちょうどその頃、おじ(国分酒造の組合員)が新しく焼酎会社を皆で立ち上げるので、一緒に働かないかと誘われた。

ちょっと迷ったが、母の実家が小さな芋焼酎蔵だったことや、子供の時分に昔ながらの杜氏と蔵子の芋焼酎造りを見ながら育った思い出があったこともあり、働くことに決めた。

しかし、跡取りでもないのに、自分がまさか焼酎造りの世界に携わることになるとは、思いもよらなかったことだと思う・・・』

安田宣久氏(1998年)
安田宣久氏(2018年)

『その当時、60歳で他の蔵から移ってきた、渡り職人の阿多杜氏の下で、5年間一緒に働き、65歳で定年退職した先代を引き継ぎ、杜氏を任された。

芋焼酎、麦焼酎、米焼酎造りの基本は、先代から教わった。

焼酎造りは、自分にとって高いハードルの連続だったが、世の中にこんなに楽しい仕事があるなどということは、当時は考えてもみないことだった。

その頃、蔵を悩ませていたのが、水の問題だった。

水質は驚くほど良かったのだが、時折、何千年も前の火山灰様の細い砂が混じることがあって、機械故障の原因になることがあった。解決するのに時間がかかったが、それは南に桜島、北に霧島山があり、その中間に位置する蔵の宿命だと言える。

その問題を解決するために、水道配管、電気工事などの現場の業者と共に修理しながら、共に勉強したことが、後に、麹製造装置、芋蒸し機、蒸留器の改造に大いに役立ったと思う。』

安田が杜氏に就任して、2022年には30周年を迎える。


1998年、笹山 護、東京から帰郷。
理事長の母の元、総務部長に就任する。

「国分酒造協業組合」は、当初4億数千万円の銀行借り入れを抱えてのスタートだったが、発足2年後の1988年には黒字に転換する。

組合の経営も波に乗り始めたその頃、笹山 護は、1989年に東京の大学を卒業して大手都銀に就職、銀行マンとして活躍していた。
とはいえ、母・千枝子からは「いつかは蔵を継いでくれ」と言われるようになって、笹山も漠然と帰郷を考えてはいたのである。

事態が急変したのは、蔵の経営も安定を見せた1997年。父・健一郎が大腸ガンに冒されたのだ。

2004年、焼酎ブームが過熱する中で掲載された南日本新聞の紹介記事

「業界、組合が将来飛躍するには、県外で売れる体制を作らねば」。

1997年の大晦日、父のそんな言葉を思い返しながら、笹山護は自動車で東京を出発。年が明けた1998年1月1日、故郷に戻ってきた。

そして2001年2月、健一郎逝去。母・千枝子が理事長となった新体制のもと、笹山 護は総務部長として活発に動き始める。

(2)へ続く。


一部画像は「めぐりジャパン」さんの記事より承諾を得て転載させていただいております。


いいなと思ったら応援しよう!