宮崎蔵元アーカイブズ 2002〜07(6) 小玉醸造
■なんとか、潤平さんの所へ行けることに・・・一路、車は南へ!
昨夜のニシタチにおける笑劇の終幕・・・杜氏潤平さんのオトボケに一同唖然となったのであるが。とにもかくにも潤平さんのご厚意で、21日の午前10時過ぎから2時間程度の“執行猶予”を確保してもらったのだった。
午前9時、宿の前に集合。ここで、鹿児島に急遽戻るAptiva野郎さんと別れの挨拶。あの謎の焼酎フォーク・デュオが再結成される日は、いつのことか? いったいその日は来るのか?! 様々な想いを抱きながらそれぞれの道を目指す3人、であった。
さて、残った石原けんじ大佐とわては、車に乗って、マツユカ女史の来着を待つ。今日の主賓である。
10分後、昨夜とは一転したスポーティな出で立ちでマツユカ女史が現れた。さっそく大佐の兵員&焼酎輸送装甲車で日南を目指す。
「若いもんは若いもん同士が良かろうて」と、老骨のわては後部座席に陣取る。いよいよ注目の日南蔵への旅がスタートした。
午前の天気は、あまり冴えなかった。けんじ大佐との焼酎探索、台風や大雨が毎度のお出迎えで慣れっこになっているとは言え、やはり南国、太陽の顔が拝みたいもんだ。
しかし、無常の雨。日南の海岸風景が、虚しく流れていくのだった。どうしてこうも、大佐と一緒だと天気に縁がないのか? 大佐はわてが悪いというが(爆)
■宮崎市内から1時間。飫肥城下の大通りにあった潤平さんの蔵。
向かうは日南市飫肥。有名な飫肥城の城下町である。都市計画で古い武家屋敷風の街並みに整備された大通り、そこに並んだ家屋のひとつが彼の蔵だった。
通りから眺めると、正面に建物が二つある。タイトル画像が試飲場兼住居、上画像が車庫のような建物。二つの建物の間が駐車場になっており、駐車場の奧が仕込みおよび貯蔵蔵となっていた。
「ごめんください」と声をかけると、奧から杜氏潤平こと金丸潤平さんが出てきてくれた。彼はサーフィンから戻ったばかりのようだ。
さっそく試飲場の方でお話を伺うことに。彼は素面、“いつも”の潤平さんに戻っている。
上画像は、『スカイネット・アジア』の広報誌に登場した潤平さん。記事のタイトルは、わてが最初に名前を聞いた時の第一印象そのままに『杜氏潤平って、誰だ?』、である。
この広報誌の露出でも相当の反応があったということだ。しかし、6月に出た雑誌『dancyu』の焼酎特集はさらに大反響を巻き起こし、鳴り止まぬ電話で仕事が出来ないほどだったそう。蔵の石高そのものが僅かであるため、とても対応できなかったと潤平さん。
■キャッチフレーズと化した「杜氏潤平」の名付け親は、“誰だ?”
「杜氏潤平」・・・わてがこの名前を最初聞いたとき、とても良いネーミングだと思った。聞いた途端に頭にこびり付いたからである。
彼の姓の“杜氏金丸”ではなく、名である「潤平」を採ったことが、ネーミングとしてよくハマっている。だが、最初はそれは杜氏である金丸潤平さんの本名から採られていると知って驚いた。商品名だけかと思っていたから。
さて、人名もこれ以外の組み合わせが考えられない、ピタリと決まった名前というのがあるもんですな。例えば身近な例でいけば、『萬年』専務の「渡邊幸一朗」氏や、日向が生んだ偉大なる焼酎研究家であらせられる「与健二郎」先生(爆)などのお名前が即座に浮かぶ。
金丸潤平、そして杜氏潤平。どちらにしろ、潤平という漢字と訓に、彼のパーソナリティのすべてが凝縮されているように思えて仕方がない。
いまでもわては、金丸潤平さんを呼ぶとき、つい「杜氏潤平さん」と呼んでしまうのだ(^_^;)
■あのラベルの紙質と、書体について。
ここで、マツユカ女史が話の輪に加わる。
潤平さんが、事務所の奧からテスト版の書体見本を持ってきてくれた。彼が依頼した新潟の書道家の先生が、いろんな書体で書き分けている。どれも個性のある筆使いだ。
というわけで、最終的に決定したものが、下記画像にあるお馴染みの書体である。見比べてみると解るが、やはり落ちつくべき所に落ちついた、というところか。
実際にラベルになったものは多少レイアウトなどが変わってはいるが、柱となる商品名がこのタイプが一番。ロゴとして立ち具合は、わてだけでなく、けんじ大佐やマツユカ女史も見て納得の出来映えやったです。
■杜氏潤平の“心臓部”、蔵の内側へと潜入開始!
ここで、『杜氏潤平』の心臓部とも言うべき、蔵へとお邪魔することに。正面の通りから30mくらい奧が蔵の入口である。
この時分から、天候もすこし回復を見せ始めた。そのせいか、すこし蒸し暑く汗がじとっと湧きだしてくる。
まず、入口から見渡せば、目に付くのが蒸留器と芋蒸器である。見て驚いた! わて自身、今まで見かけたことが無いタイプなのだっ。
下画像は、一次もろみの仕込み甕。現在は仕込みはやっていないので、シートが被されている。さらにその下は、麹米用のセイロ。吟醸酒用のものが出物としてちょうどあったので購入したとのこと。温度調節用の筵の胴巻きで覆ってある。
それから、潤平さんの案内でさらに2階にある麹室へと潜入。まだ新しい室である。
下記画像は、種麹と蒸した麹米を混ぜ合わせる床。この床に布の広げ、その上で種付けが行われる。麹室はまだ新調なって数年しか経っていないため、使用した木材の香がまだ漂っていた。よか香りである。
下画像は、菌の繁殖を促すため固まった麹をほぐす木製の道具を手にするけんじ大佐。ダイアモンド型にとがった先端部を持つこの道具は、潤平さんが修行したある蔵で使っていたものを模して特注したという。やはり使い慣れたものが良いらしい。
種付けした麹米を保管する室だが、麹米を載せる容器がデカイ。この容器の上から布をかけて、麹米を置く。
作業効率を考えて、少人数なりの知恵がいろいろと発揮されているのである。
下の2枚は、酒質をチェックする検査室。厳めしい雰囲気の中に、ふと窓枠のところを見ると、ガンダムの小さなフィギュアが並んでいた。
さらにまた、一階に戻る。下左画像は二次仕込みのタンク。右は貯蔵用のタンク。それぞれ同じスペースで左右に分かれて設置されていた。
潤平さんのところでは、一次仕込みは甕だが、二次および貯蔵はタンクという構成。あの味、タンク仕込み+タンク貯蔵という組み合わせで醸し出されているのである。
■蔵再興の道のりを物語る、旧金丸本店時代の作品群。
再度試飲場に戻って、一息入れることに。そこで、けんじ大佐が隅に埃を被ったまま置かれた一升瓶の群を発見した。さすが大佐、お宝には何かと鼻が利くようである。
上は麦焼酎の『生駒』、下が芋の『幸露』。どちらも、潤平さんの元もとの蔵『金丸本店』時代の作品だ。
潤平さんの父上は宮崎市内で『金丸本店』を経営されていたのだが、ある大手メーカーと合併して同社は事実上姿を消した。その後、紆余曲折を経て、売りに出ていた「小玉醸造」の権利を買い取り、3年前に再スタートを切ったのだった。まさに御家再興なのである。
けんじ「これ、凄いですねぇ・・・。何年前のもんだろう?・・・あのぉ・・・持って帰っていいですか?」
珍し物はすぐに欲しがる大佐である。しかし、これらの瓶は蔵の記念品で、さすがに強奪は出来なかったようだ。大佐、お疲れさま(爆)
ちゅーわけで、滞在時間もリミットに近づいてきた。潤平さんにお暇を述べることにする。
最後に。潤平さんが今後どういう造りを考えているのか聞いてみた。
まだまだ二十歳代の潤平さんだ。さらに脂がのってくれば、今まで以上に美味しく、かつ面白い商品を登場させてくれるような期待感が湧く。潤平さんのこれからの動きが楽しみだ。
(了)