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或る「糸島の醤油蔵」伝 カノオ醤油(2) 福岡県糸島市 加布里

(文中 敬称略)

■「輝く小さな街」世界ランキング3位の街、糸島市。

福岡県糸島市。

この福岡県最西部に位置する人口約9万9千人(2022年2月現在)の地方都市は、2010年平成の大合併により前原市・二丈町・志摩町の3市町がひとつとなって生まれた行政区である。

北は玄界灘、南は筑紫山地に挟まれて、身近に山海の自然とその恵みを享受できる地勢にあることから、糸島ならではの農産・畜産・漁業の豊富な味覚を求めて、隣接する福岡市や周辺市町から訪れる行楽客で溢れる。

玄界灘に面した北側の海岸はマリンレジャーを楽しむ若者で賑わい、半島の各所には陶芸やクラフトなど様々な作家が工房を構えて来訪者たちを出迎える。

また、糸島市は九州最大の商都・天神や博多、さらに福岡空港へもJR筑肥線と福岡市営地下鉄で直通するという生活利便の良さも相まって、国道202号線と筑肥線に沿って住宅集積も進む。

広がる田園風景、風光明媚な海浜、滋味溢れる食、自然と生活のグッドバランスを求め、大都市圏から糸島市に移住する人々も年々増加。一般の生活者からアーティストやクリエイターまで、多彩な人々が居を構えているのも糸島ならではだ。

イギリスの情報誌「MONOCLE」による『輝く小さな街(Brightlights, small city)』2021年ランキングでは、糸島市は世界3位に選出されており、その魅力は世界的と言ってもいい。


■歴史資料に見る、伊都國、怡土郡と志摩郡。

そんな糸島市の歴史を振り返ってみる。

古代における糸島市は、西暦280年から297年の間に陳寿が書いた中国の歴史書『三国志』の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝・倭人条、つまり「魏志倭人伝」の一節、「東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚・柄渠觚。有千餘戸。丗有王、皆統屬女王國。郡使往來常所駐。」でよく知られる。

時代は飛んで、戦国期から近世にかけて、糸島は「怡土郡」「志摩郡」の南北二つの領域に分かれていた。

『怡土志摩地理全誌』(由比章祐 1989年)に附された「怡土郡全図」を見ると、近世では志摩郡の大部分と怡土郡の東部は黒田藩領だったが、怡土郡の西部域は幕府直轄領、中津領、対馬領などが入り乱れていたことが解る。

また怡土郡と志摩郡の境界については、糸島市を東西に横断する現在の国道202号線のやや南を蛇行する形で、北が志摩郡、南が怡土郡となっていた。


■『養生訓』の著者・貝原益軒がフィールドワークした加布里。


さて、このモノガタリの主人公である「或る醤油蔵」は、糸島市西部の船越湾に面した旧怡土郡の町、「加布里」で操業している。

加布里は、先に挙げた『怡土志摩地理全誌』によれば「延宝六(一六七八)年から香力、本、岩本と一緒に、幕府領となり、明治まで続いた村」とあって、徳川幕府の直轄地だった。

この加布里という場所については、江戸時代に黒田藩に仕えた儒学者・本草学者で、健康指南書『養生訓』で有名な貝原益軒(1630〜1714)が当時の様子を著書に残している。

それは筑前國についての地誌『筑前國続風土記』で、益軒自身が各地をフィールドワークし、地理や歴史、エピソードについて記した郷土史研究のバイブルとも言える作品である。

加布里についての記述を見てみよう。

『筑前國続風土記 巻之二十二 怡土郡』

○加布里
町有り。民家多し。漁人も有。海邊にて舟の多き所也。岩本に近し。此里の向ひ、かやの山の麓、邊田にも、是より舟にて渡る。海上七八町有。此里の西に古城の址有。南に天神の社有。此里の名は、中華の書、武備志等にも載せたり。

出典:中村学園大学「貝原益軒アーカイブ」

住民が多い町で、元禄期から漁港として賑わっていたことがわかる。

文中にある”かやの山”は「可也山」を指す。ご当地富士と言われる山容秀麗な故郷の山を讃える愛称として、可也山は地元では”糸島富士”として愛されている。

加布里漁港から望む”糸島富士”こと可也山

さらに”邊田”は、”此里の向ひ”つまり加布里漁港の対岸、可也山の麓にあって現在は小富士という町丁に含まれてしまった「辺田(へた)」を差す。まだ橋がない時代、加布里と辺田を結ぶ渡し舟が行き交っていた。

益軒の記述では対岸へ渡る距離を”海上七八町有”としているので、一町=110mとして、770〜880m程度の航海だったのだろうか。

その渡船の不便を解消したのは、1931年に完成した「弁天橋」だ。

右が弁天橋 (撮影:カネさん)

上記画像の可也山の手前、右に見えるのがそれで、その完成までは益軒が生きた時代そのままに、渡し舟が南北に行き交っていた。

■益軒が記した、近世怡土志摩の「酒屋麹屋」の数。

また益軒は同じ『筑前國續風土記』の巻之一「國中酒家麹家」という項目で、怡土郡の酒家および麹屋の数を記している。

怡土郡は「酒家二軒、麹屋六軒」。ちなみに志摩郡では「酒家二十六軒、麹屋十七軒」とあって大幅にその数が多かった。

「酒家(さかや)」は、元禄時代の1697年に設けられた「酒家運上(さかやうんじょう)」という酒造業者に課した運上(税金)を差す言葉が残っており、同時代の貝原益軒は今で言う「造り酒屋」の意味で使用していたと思われる。

「麹屋」は「もやし屋」とも呼ばれ、種麹を造って酒蔵や醤油蔵、味噌蔵に卸す製造業者だった。麹屋は種麹と甘酒を主な販売品目としていたが、味噌を製造する店もあった。また味噌の副産物で醤油の原点でもある溜醤油も商っていたのではないかと想像できないこともない。

さて、怡土郡で麹屋6軒、志摩郡で麹屋17軒と書かれた計23軒の内から、現在ではどの程度の麹屋が味噌蔵または醤油蔵として生き残り、その血脈を今へと伝えているのだろうか。


■現在の醤油蔵の分布。「麹屋」の血脈を求めて、今。

上記マップは、現時点(2022年)での糸島市と福岡市西区の醤油蔵の所在地をプロットしたもの。大まかだが、罫線囲み色アミで伏せた南が怡土郡、北が志摩郡を示す。

江戸中期に「麹屋」23軒を数えた怡土・志摩両郡だが、現在地醤油蔵でいえば旧怡土郡エリアで3軒(カノオ醤油、ミツル醤油、マツフジ)、旧志摩郡エリアなら北伊醤油のみ。

私の目を惹いた船越湾周辺として捉えれば、3軒(怡土郡=カノオ醤油・ミツル醤油、志摩郡=北伊醤油)となる。

近世怡土郡にあった「麹屋」の造りの”血脈相承”は、21世紀の現在にもしかと承継されているのか、はたまた否か。

私は、加布里の漁港、特徴的な細い路地を辿って『カノオ醤油』を訪ねた。

(3)へ続く。





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