暑中見舞い
とにかく今年の暑中見舞いを書き忘れていた。
ここのところ毎年出してはいるのだけど、年賀状と暑中見舞い。時代に逆行していると言えば、大いに逆行している。父と母を立て続けに亡くしてからは、毎年欠かさず書いてきた。なんでだかわからないけど、いままでやってなかったことだけど、心に余裕ができたから書いているとしか言いようがないけど、そうなんです。それからずっと毎年正月と夏には葉書を書いている。
書いていると言うより、インクジェット印刷しているといったことが多い。主に「筆まめ」と言うソフトを使って、好きな図柄を選んで、それにオリジナルメッセージを加えて、手書きでもひと言添えて、葉書を認める。これが切っ掛けでなんかなるんじゃないかとは思っていない。敢えて言うなら、自分の存在証明を相手に求めているのかもしれない。多分、これは自分が死ぬまで、続けると思う。
親戚も友人も少ないので、極親しいひとだけに送っているだけだ。今日数えたら20通毎回送っている。その中には夫婦単位で送っている相手もいるので、自分の存在はそれだけの人に認めてもらっているのかも知れない。まぁ相手が読んでくれていればの話なのだが。
その面倒とも思える過程がわたしは、実は好きだ。送る人を選んで、リストアップして、葉書のデザインを選んで、文章を考える。なので、今日は忘れたと思った瞬間に、ささっと原稿を作って、古い葉書で試しにプリントアウトして、あとは週末明けたら、かもめーるを買いに行って、印刷して手書きのメッセージを添えるだけになっている。そのときは、自分の陽の部分を思いっきり前面に押し出して、の表現で受けを狙う。なかなか強かなのである。劇場型詐欺ならぬ、劇場型イメージアップ作戦なのである。
本当なら、どうしているだろうか、元気なんだろうか。と思いながら出すのだが、絶縁状態に近い親戚にも出したりしているので、かなり心臓は強い方である。でも少しはどうしているんだろうなぁと考えながらと言うのはあながち嘘ではない。
病気になって、何もできなかった期間がわたしにはある。それに年賀状をメールなどに変えてしまったのはとうの昔だ。でもいまさらながら、葉書と言う存在に、ちょっとした意義を見出して、季節の挨拶をすると言うことをしている。いまのわたしには時間がある、それと少しだけで貯金もできたので余裕ができた。30枚葉書を買ったとしても、2千円かからない。せっせと暑中見舞い作成をする。これはわたしと社会を結ぶ接点なのである。(このnoteのようにね。)
まぁ、そんな日々を送るのも悪くはないよね。社会との僅かばかりの接点を持ちながら、今年も夏が過ぎていく。
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