風を待ち、海を渡る★没後70年 南薫造展
瀬戸内海(せとないかい)の穏やかな海では、船がゆったりと浮かんでいる。日本海や太平洋の荒波で大きく揺れる船とは、だいぶ趣(おもむき)が異なる。そんな瀬戸内海に面した広島県呉(くれ)市には今も、風待ち・潮待ちの港だった頃の歴史的景観が残り、かつて帆(ほ)を張って風に任せて進んだ船の姿が想像できる。人生も、そんな順風満帆(じゅんぷうまんぱん)でありたいと人は願うものだ。
カタログから 南薫造《少女》 1909年 油彩・カンヴァス 東京国立近代美術館
明るい色彩と穏やかな作風で”日本の印象派(いんしょうは)”と評される油彩画や水彩画を描き、明治から昭和にかけて活躍した洋画家・南薫造(みなみ・くんぞう)の回顧展「没後70年 南薫造展」が、東京ステーションギャラリー(JR東京駅の駅舎内・丸の内北口)で開かれている(4月11日まで。その後、広島県立美術館<4/20-6/13>、福岡・久留米市美術館に巡回<7/3-8/29>)。
南薫造(1883~1950)は、瀬戸内海に面した広島県呉市安浦町(やすうらちょう)(※現在の地名)に生まれた。医師の息子として、比較的裕福に育ち、小学校で広島市に移り、尋常中学校に通った。そして、上京して東京美術学校(現・東京藝術大学)西洋画科に入学。女性の絵を得意とする岡田三郎助(おかだ・さぶろうすけ)に師事し、在学中から白馬会(はくばかい)展に入選した。大学卒業後の1907年からはイギリスに留学した。欧米を歴訪して帰国後、官展(かんてん)の中心的画家として活躍。全般的に、順風満帆な画家人生を送っている。
イギリス留学と水辺の風景
南薫造は若き日、水彩画の本場であるイギリスに留学した。イギリスでは、水彩画の巨匠である風景画家ターナー、ラファエル前派(ぜんぱ)の作品などに親しんだ。
カタログから 南薫造《日没》 郡山市立美術館
夕日が沈むにつれて、青や紫、さまざまな色を纏(まと)い始める水辺の情景。ぷかぷかと浮かぶ白鳥、談笑する少女たちが次第にシルエットとして浮かび、穏やかな時間が流れている<南薫造《日没》>。その情景は、どこか瀬戸内海と重なる。遠くに浮かぶ島々、船が影絵になる静寂な時間――筆者が瀬戸内海を旅行で訪れたとき、そんな日没の時間帯が一番美しいと思った。
南薫造は、水辺の情景をよく描いた。イギリスに滞在中、テームズ川(テムズ川)や港などに足を運んだ。霧の都ロンドンの空気感や、曇りがちな天気は、瀬戸内海の湿気を含んだ空気と似た光の感じ方があったのかもしれない。
ただ、瀬戸内海の沿岸地域は、晴れている日が多く、夜には星空が見えて明るい。南薫造の作品に、夜景が多く、しかも夜でも比較的画面が明るいのは、故郷の記憶からか。そして、瀬戸内海は、春の季節が一番美しいと思う。
カタログから 南薫造《春(フランス女性)》 1908年頃、ひろしま美術館
《春(フランス女性)》という作品にみられるように、南薫造は留学時代、現地のさまざまな人々を描いている。南薫造はイギリスのほか、フランス、イタリアなども訪れた。彼が師事した岡田三郎助がフランス留学経験を持ち、女性を描くのを得意としたことから、人物のデッサンも目的の一つだったのだろう。
この《春(フランス女性)》からは、穏やかな海のように、静謐(せいひつ)な時間が流れているのを感じる。写実的に描かれた女性に対し、春をイメージさせる”桜”の背景は壁紙のようで、平面的で装飾的。西洋の写実表現と浮世絵の装飾性が融合したような、さながら日本人によるジャポニスムといった印象だ。
子どもへの温かなまなざし
南薫造は、子ども、とりわけ少女をよく描いている。中でも、冒頭の《少女》は、印象派の影響を強く感じさせる作品だ。南薫造は、子どもをモデルとした作品を、さまざまなタッチで描き分けており、試行錯誤がみられる。
すばやく光、色を捉える場合は、透明水彩を用いて、さっと繊細で透明感のある色彩に。しっかりと構図を決め、重厚な作品に仕上げるときには油絵具を使う、といった感じであろうか。いずれにせよ、西洋の油彩画を模写するなど、地道に学んだ足跡がうかがえる。
中央画壇と農村
1910年に帰国後、黒田清輝(くろだ・せいき)が率いて洋画壇の主流を占めていた洋画団体「白馬会」で活躍。同年から12年にかけて、文展(ぶんてん)では毎年受賞を重ね、33歳の若さで審査員に推挙され、画壇での地位を確立していく。
カタログから 南薫造《六月の日》 1912年 東京国立近代美術館
1912年の第六回文展で二等賞を受賞した《六月の日》では、故郷の瀬戸内海に取材し、麦畑で畑仕事をする男が一時休憩し、水を飲むシーンを描いた。麦の黄色が支配的な画面、その遠景に望む瀬戸内海を、水平に延びる青の線で表現。補色関係を利用しつつ、さらに点描(てんびょう)法のようなタッチで、明るい画面を作り出した。水を飲む男の姿には、爽快感さえある。瀬戸内海の6月はすでに暑く、湿気があるので喉も乾く。
畑の奥のほうで腰を曲げた女性は、ミレーの《落穂(おちぼ)拾い》を思わせるが、”貧しさ”が感じられない。瀬戸内海に面した農村で育った南薫造にとって、農家の人たちは親近感のある存在だったからだろう。ただ、その女性を含めて農作業に励む2人は、下絵の段階では、水を飲む男の近くにいた。遠近感を強調するために2人を奥に配置し、水を飲む男を際立たせたこの作品は、一部で作為的とも評された。
したたかに風を読み、画家人生の安定した航路を確保したのだろうか。だが、南薫造の作品から伝わる温和な人柄によって、自然と周りに人々が集まり、自然と彼を押し上げた(風を送った)ともいえるのかもしれない。
激動の時代の先に
1923年の関東大震災では、被災後の東京の街の姿を淡々とスケッチしている。倒れる電信柱や、焼け焦げた木々があるものの、灰色の沈んだトーンではなく、黄や青の明るい色彩も配されている。屋根を修理する人々などが小さく描かれており、復興への希望すら感じる。
南薫造は1932年、東京美術学校西洋画科の教授に。37年には帝国芸術院会員に推挙される。その頃、従軍画家として台湾などにも赴いたが、43年には教授職を辞して、故郷に疎開。1945年の東京大空襲では自宅・アトリエを焼失し、教え子も失った。
カタログから南薫造《瀬戸内》 1949年頃 渋谷区立松濤美術館
故郷である広島県呉市安浦町で、南薫造は瀬戸内海を見ながら、晩年を過ごす。戦後は、瀬戸内海の絵を明るい色彩で、たくさん描いた。戦時中、瀬戸内海を描くことは禁止されていた。軍事拠点があり、軍事機密に関わるとされたからである。平和な島々を取り戻すべく、戦後は瀬戸内海の観光業にも協力した南薫造。孫たちも描いており、穏やかな暮らしがうかがえる。
カタログから南薫造《すまり星》 1921年 東京藝術大学
触れられていないが、南薫造の教え子には広島で被爆した者もいた。広島市で青春を過ごした画家は何を思ったのか。運命を統(す)べることはできないまでも、一本の大木のように真っすぐと人生航路を進んでいきたいものだ。
なお、東京ステーションギャラリーを訪れたときには、復原された東京駅駅舎の姿も楽しみたい。
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【★ひーろ🥺の腹ぺこメモ】美術館があるのは、JR東京駅の丸の内側(西)。オシャレな食事場所は多いけど、近くだとKITTE(キッテ)辺りが分かりやすいかも。