素敵な靴は、素敵な場所へ連れていってくれる 36
コードを目視して、バグの個所を見つける、そしてそれを少し書き直す、そんな単純作業の連続だ。静かな音楽が流れる誰もいないオフィスで、一人有美は作業を続けた。
無人のオフィスは、有美とっては少し新鮮で、何ものにも妨げられず仕事に集中できるのは、心地よかった。
昨夜遅く帰ってきた、拓海に、仕事で会社へ行くというと、少し驚いたような眼を有美へと向けた。彼もここしばらくは、劇団の稽古で忙しいのか、帰ってきたり来なかったり、不規則な生活を送っている。
コードを一つ一つ直しながら有美は、今夜は拓海とゆっくり夕食を食べようと思った、彼が帰ってくればの、話だけけれども。
お昼を過ぎたころ、ようやく目途が付いてきた。
「あと、1時間くらいかな・・・・」
有美は小さく、そう呟いた。知らない間にパソコンへつないだ音楽が終わっていた、
再び、違う曲をセットし直す。静かなオフィスに、心地よい音が響き出す。
誰かが、フロアに入ってくる気配して、顔を上げると、南村がこちらへ向かってきていた。
鮮やかなグリーンのワンピースに革のサンダルを履いて、いつもは後ろで束ねている髪をアップしていて、いつものスーツと随分印象が違った。
「ご苦労様・・・・よかった、まだいたんだね、終わっていたらどうしようかと思った、もうお昼食べた?」
まだですと有美が言うと、
「これ一緒に食べよう、買ってきたんだ・・・」
南村はそう言うと、持ってきた紙袋をテーブルに置いた。
有美は、その袋のロゴを見ると
「あっ、これ、麹町の・・・あの有名なパン屋さんじゃないですか・・・前にTVで見ましたよ、たしか・・・イタリアパンがおしいしと言っていたような」
「そう、来る前によってきたのよ、少し並んだけどね」
「ありがとうございます。」
「少し休んで、食べようか。」
南村はそういうと、袋から飲み物を取り出し始める。
有美は、簡単に自分のテーブルを片づけた、南村も自分の席から椅子を取ってくると、有美の横に腰かけた。
食事が終わると、南村は、少し仕事をすると言って、自分の席へ戻った、有美は再び作業の続きを始めだした。
しばらくすると、概ねすべての箇所が直ったように思われたので、再度ログをチェックしていく、まだデスクで仕事をしていた南村に、
「多分これでいいかと思うんですけど、一度見てもらえますか・・」
そう声をかけると、南村が、わかったわと言って、課の情はパソコンの方へ向きなおす、鋭い視線で流れる画面に現れるデータを眼でおっている、それに合わせるように彼女の眼球が上下していく、有美は南村の横顔へじっと自分の視線を注ぎこんだ。。
初めて彼女の横顔を近くで見る、いつもと違う服装がそうさせるのか、同性ながら、彼女のそのきれいな横顔に、有美は思わず息をのんだ
長い睫毛に守られた細く大きな瞳、綺麗にカーブした鼻筋と、その下にある引き締まった小さな唇、いつもなら髪に隠れてみえない、そのふくよかな耳朶も美しい造形だ
嘗て。大津がこんな綺麗な造形を愛したのかと思うと、有美には、むしろ南村へ嫉妬ともいえるような感情がわいてきそうだった。
「完璧だわ、全部直ってる・・・・・」
呻くような、南村の声で、有美は我に返った。
「・・・よかった、全部、正常みたいね・・・・」
南村が、有美の方へ顔を向けて、笑顔でそう報告する、思わず有美も、小さくよかったと声を上げる。
「けど、凄いわね、こんなに簡単に直せてしまうなんで・・・
「そうでもないです・・・大学の時に、専攻していた分野なんで、」
「これだけのスキルがあるのにね。」
有美には、南村が言おうとして、途中で辞めた言葉がすぐにわかる、彼女はこれだけのスキルがあるのに何故、派遣社員でいるのかということを聞きたかったのだろう。
仕方ないことだけども、大学院へ進学しようとして経済的にあきらめ、代わりに就職した会社が解散、有美に残された道としては今の派遣社員でいることが精一杯の道だった。
南村は、気分を切り替えるように、明るい声で、さあ、帰ろうというと、自分のデスクを片付け出した、有美もそれに合わせるように、帰る準備を始めた。
二人して、エレベーターを待つ間、有美が大津は、今日は来ないのかを、南村に聞いた。
「たぶんね、私に行ってくれっていったくらいだから・・・」
静かにそう言うと、有美はそうだったのかと氷解しした、何らかの理由で来れない大津の代わりに、南村が来たんだと。
エレベーターに乗り込むと、南村が有美の方へ顔を向けて
「こんなにきれいな女の子ふたりが、日曜日を犠牲にして、仕事したんだから、孝之には、それなりにちゃんと報いてもらわないとね・・・」
「・・・孝之って・・・」
「大津孝之のことよ」
「えっ?・・・南村さんは、いつも大津部長を下の名前で呼ぶんですか?」
「ふふふっ・・ごめん、誤解しないで、そう呼ぶのは、二人っきりで食事とかに行ったときだけよ・・・今はつい口が滑ってしまったけど・・・けれど自分ではきちんとけじめをつけてるつもりだから。」
有美には、別れたとはいえ、今でも二人で食事に行ったりすることを以前に聞いて以来、未だに南村は、強がっているけれども、少し未練みたいのものが、大津にあるのかもしれないと感じた。
一階でエレベーターを降りる、いつものガラスの回廊には、晩夏の日が容赦なく降り注いでいる。二人は静かに肩を並べて、エントランスホールへと進む、二人の足音だけが静寂を破るようにエントランスホールへ響いていく。
やがてドーム型の天井に例のあの絵が見えてくる。
「今日は、ゆっくり見なくていいんですか?」
有美が、南村へそう声をかける。
「ふふっ、今日はいいわ、早く帰ってゆっくりしましょう、お互いに」
南村は少し口元を緩めて、労わる様に、有美へ返事をする。
自動ドアが開いて、晩夏の熱気が二人を包み込む、車寄せに植えられた大きな樹が、陽炎のように揺れて見えた。
今から帰れば、拓海と二人でゆっくり夕食をとれる時間に十分間に合うと、有美は思った。
::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
今宵も最後まで、お読みいただきありがとうございました。