詩小説『引越物語』㊳ナツになる前に
『引越物語』のマガジンはこちらです。(全話対応マガジンですから沢山の登場人物がいるように見えますが、殆どのお話が2、3人で進行します。また独白も多い小説です。)
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こちらが前回のお話です。
では、ご一緒に『引越物語』第38話の舞台・麻美とマリオのアパートを覗いてみましょう。
「あーみちゃん、飛行機に乗ってジェノヴァに行きたいね。今のうちに、向こうに行こうよ。日本のナツ、全部ベタベタ。ジェノヴァのほうが乾いて気持ちいいナツだよ。」
マリオは里帰りがしたいのだろう。マンマに会ってからというもの、この話ばかりだ。
「ジェノヴァのレストランに、父さんが仲間と作った窯があるね。ピザは窯で焼くものよ。ほんとのピザはもっともーっと美味しいから。」
「そうなんだ…。日本のピザはマリオにとっては偽物なんだね。」
「ノーノー。日本のピザ美味しいよ。イタリアのピザは別の食べ物。インド人のカレーと日本のカレー、違う。中国の麺と日本のラーメン、違う。全部、美味しい。全部、違う食べ物。」
「ふーん。わかった。」
まともに家庭料理を味わってこなかった麻美にとっては、マリオとマンマの食への拘り方は理解しがたかった。
食事なんて空腹が満たされたらそれでいいと思って生きてきたのに、ピザのためにジェノヴァまで行くなんて。お腹の赤ちゃんは、私が何を食べたら元気に大きく育つのかな。飛行機に乗るのも、ジェノヴァで親戚に会うのも正直めんどくさいな…。
「大丈夫?気持ち悪いの?横になって。」
マリオは急いで洗濯物を取り込んで、洗い立てのタオルケットをベッドに敷いてくれた。小さい頃からタオルがないと眠れない麻美のために、マリオは寝具の殆どをタオル製に変えてくれたのだった。
「ありがとう。マリオは優しいね。」
親身になってくれた人々に何も返せないまま毎日が過ぎていく。私の人生これでいいのかな。せめて、夫婦でジェノヴァに行くのが親孝行になるんじゃないのかな。
よく考えたら、日本に私の赤ちゃんが産まれて喜ぶ人なんて一人もいないんだった。
麻美は、まっすぐにマリオを見つめ、手を握ってこう告げた。
「赤ちゃんも順調だし、今のうちにジェノヴァに行ってみようかな。飛行機に乗ってみたい。」
「ほ、ほんと?すっごーいね!ありがとう!!」
マリオのキスの嵐が、お腹にもやってきた。
赤ちゃん、私の赤ちゃん。良かったね。パパが喜んでるよ。
「どうして泣いてる?あーみちゃん悲しい?つあり?どこか痛い?」
「もうー。私だって幸せな時に泣くんだよ。マリオもマンマと空港でハグして泣いてたでしょう?」
「幸せ?良かった。家族になった。」
満足そうなマリオは、下がるパンツを両手で引き上げた。
家計が苦しいのもあるが、マリオは日雇いや短期バイトのハードさから極端に痩せてきている。麻美に心配をかけまいと隠しているが、体重は知り合った頃に比べて8キロ落ちていた。
パパになるのも大変だよね。ごめんね。
麻美は、マリオの夕食作りの音を聞きながら、タオルケットをかぶって詫びた。