詩小説『引越物語』⑳おうちへ帰ろう
誕生したばかりの仔鹿のようにユラユラと立ち上がった麻美が、母の元へ歩き宣言した。
「お母さん、私とっくに大人だよ!!」
「麻美さん…。忙しい時に呼び出しといて!そんな勝手なこと言うのんか。あほらし!」
「いつでも私が悪いのよね。そうよね!迷惑かける悪い娘なのよね!!だから、いなくなってあげたんじゃない!!!」
「私は、高知の大学へ進学することも一人暮らも反対しましたよ。それを振り切って、半ば家出みたいにして出ていったのは、麻美さんやないの。」
激昂したのはほんの一瞬で、また元の坦々とした口調になった。
凪は見てしまった。瞳が揺らぎ汗が止まらないのを。
きっと、この人だって息ができない程とてつもなく苦しくて堪らないはず。そんな気持ちを娘にぶつけてしまえば、いなくなってしまうかもしれないと閉じ込めて生きてきたのだろうか。
いや、麻美の親としての絶対的な愛が、そうさせてきたのだろう。子育てに正解なんてあるのだろうか。毎日毎日、ただその時にできる限りのことをし続けるしかないのだから。
ひーひーひーと激しい呼吸を始めた麻美は、そのまま倒れ込んでしまった。
初めて見る光景に、思わず皆が悲鳴をあげてしまった。
「ただの過呼吸だから大丈夫です。」
毅然としてそう言うと、娘を抱き抱えた。
一定のリズムで背中をトントンとしながら、麻美にフーフーとゆっくり息をしてみせるのだった。
「麻美ちゃん。そう、ふーって。ゆっくりね。そう。」
やがて、安心して眠る赤ちゃんのように麻美は目を閉じた。
「お騒がせしました。このまま連れて帰ります。ほんまにお世話になりました。後日、改めてお詫びに来ますので、今日のところは…。」
麻美の母が、止まらない涙を拭いもせず頭を垂れている。
マリオが、そっと持っていたラベンダー色のハンカチを差し出すと、その人は着物の襟元を押さえた。
「このお着物、うちの大事な仕事着なんです。着替える時間はないなと思って着てきたんですけど…。もう今日は教室をお休みにします。麻美さんの側にいます。」
わたしと未希で、麻美を支えてタクシーへ運んだ。
「おうちへ帰ろう。な。また元気になったら高知へ戻って来たらええから。」
自分へ言いきかせているかのようなその言葉に、麻美はコクリと瞬きした。
麻美の母は何度も何度も頭を下げ
「おおきに。ありがとうございました。」
そう言って、神戸へ帰っていった。
「もう会えん?」
菜摘が未希に尋ねた。
「そうかもね。でも、麻美ちゃんが幸せになれるんなら、私は心の中で応援するだけでいい。」
互いの涙色の瞳を見て、わたし達は別れを噛みしめた。
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