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友達の婚姻届を勝手に出してきた

なぜそんなことをしたのか、の前に

仕事柄いろんな街に行く。気に入ってプライベートで遊びに行く街もあれば、2度と踏み入れない街もある。浦和美園は後者の街だった。浦和美園は埼玉高速鉄道という下手すると生涯知らなかっただろう、「始発駅です」という顔をしているがその実、路線の最奥、終点駅にある街だった。
南北線に乗り入れてはいるが、三大都市の中で最も近い池袋へ50分、片道800円ほどかかる。そう、埼玉高速鉄道の運賃は高いのだ。また当時私も神奈川寄りに住んでいたことから相性も悪かった。東京都心を横断し、さらに埼玉高速鉄道を延々と走るのである。

浦和美園はここ20年で開発が進んだ、いわゆる新興住宅地で街並みは広々としており、ファミリー層しかいないせいか治安もいい。でかいイオンモールもあって、映画も観られる。悪い街ではない。強いて言うなら浦和レッズのホームなので試合の日だけ混雑する、それくらいだ。それでも私はあまりの遠さに慄き、ガラガラの電車の中、「まあこの街に来ることはもうないだろう」と思いながら浦和美園を後にした。

が、不思議なことに結果6回ほど浦和美園を訪れた。この街にわちこが住んでいたからである。

上京の折、「テニミュを観るのにTDCに通いやすい」という理由でこの街を選んだわちこは原宿や新大久保を愛する一方で、このファミリータウンを何故か気に入っていた。私は、自分の住む街にわちこがいたらどんなに素敵だろうと思い、幾度となく引っ越しを促したが彼女は頑なに「お前が浦和美園に来い」と首を横に振った。「浦和美園は嫌!浦和美園は嫌!」とスリザリンを拒むハリー・ポッターよろしく私が駄々を捏ね「せめて練馬エリアに」と交渉するも、彼女の意志は固かった。あのアルキメデスでさえ「いや〜これは支点があったとて、ちょっと無理っスね」とてこを投げるレベルだった。

もう浦和美園から動かすことは諦めていた矢先、私は本格的に引っ越しを検討しようと思う、と話した。友人Aさん宅からの帰り道だった。本来はデザートとして用意されていた季節限定の新味パルムを持たせてもらい、終電を逃さぬよう歩きながら食べていた。わちこは「え、ついに!いいですね」と相槌を打ちつつ、何でもなさそうに、私も引っ越そうと思ってるんですよねー、と言った。

きっと、他の友人との会話であれば「へえ、どの辺に?」などと会話を広げただろう。同僚が先輩と交際していることを知らず、同僚の前で先輩の悪口を披露しちゃうほどには鈍い私だが、この時は何かを考える隙もなく、反射的に口にしていた。
「ど……同棲しようとしてるだろ……!」
わなわな、と全身が震えた。わちこはただ、がはは、と笑った。照れもせず、隠しもせず、それでいながら「そうなんですよ〜♡」と惚気ることもなかったが、それはオブラートに包まれた「Exactly(そのとおりでございます)」だった。あまりの衝撃に駅までの帰り道をずっと怒り狂いながら歩いた。

わちこに恋人ができたのは2022年末のことだ。クリスマスを一緒に過ごす計画を話している時に、唐突にわちこが「そういえば彼氏できたんですよ」と何食わぬ顔で口を開いた。「そういえば」からはじまる話は、TLに流れてきたどうでもいいツイートにまつわるものでなくてはならないと幼少期から厳しく育てられた私は、やはりショックでわなわなと震えた。それでも、その時はまだ「ふーんそう?まあいいんじゃない?」と辛うじて動揺してないていを装うこともできた。
「恋など知らぬ」「結婚は不要」とかかつてわちこが切り捨てていたものを、私は無垢に信じていたのだ。かつて同じことを言っていた後輩が結婚し、幸せな家庭を築いていることは都合よく忘れたまま──しかし、約半年後、わちこは同棲を許すまでの仲に進展していた。もとよりわちこは友人とのルームシェア前提で上京(埼玉だが)して美園に家を借りており、結局友人が来なかったために空いていた一部屋を狙って「じゃあ私が住もうかな!?」と申し出ると「構いませんよ。来れるならね」と言うようなガバガバな懐ではあったので、同棲など大したことではない、と心の中で思っていた。思っていたかったのだ。

それから特に同棲や引っ越しの進捗は特にないまま、「今度実家に挨拶に行くことになった」とだけ報告を受けた。それは、紛れもなく結婚報告だった。記憶する限り、わちこは一度も「結婚することになりました」とは言わなかったと思う。そのせいで私は「いや、本当は結婚なんかしないんじゃないかな」と心のどこかで思っていた。

でも贈り物の指輪をつけ、実家へ挨拶に行くというならばそれはもうほぼほぼ結婚しかないだろう。推しカプが同じコマにいるだけで「付き合ってるのかな!?」などと言う人間が、どうして友人相手になると「いや……まだそんなことはないんじゃないか……?私もほぼ初対面で実家に連れていかれたことあるし……」という気持ちになってしまうのだろうか。自分で自分がわからなかった。この辺りから私は急激に狂い始めた。普段よく会う友人たちに「わちこが結婚しようとしている」と告げ口し、「へぇ、おめでたいね」「よかったねぇ」と口々に祝う彼女たちに「よくない!!!」と返して泣き言を言い続けた。わちこに依存していることを知っていた友人たちははじめこそ「悲しいねぇ、寂しいねぇ」「でもパーティーしてお祝いしてあげようね」と宥めてくれたが、2歳児以来のイヤイヤ期に入っていた私はそれを片っ端から拒み続け、彼氏が憎い、後からかっさらっていくような真似をしやがる、と泣き喚いた。泣き言が憎悪に変わり始めた辺りで友人たちが明らかに引いているのを感じたが、もう止まらなかった。電話越しなのにわかる。全員引いている。「これからもこの人たちと末永いお付き合いをしていきたいならいい加減やめておきなさい」と心の中で冷静に止めるものがいるのに、私はそいつを突き飛ばした。こうなれば最早己の衝動を止めることはできない。「わちと彼氏はいつ出会ったの?」という問いに「どうやら彼氏の方はかれこれ6年はわちを好きだったらしい」と正直に話し、「じゃあアンタの方がぽっと出じゃないか」と冷静に突き付けられても、うぉぉおおおええええみたいな声をあげて自分の不利な立場を誤魔化した。
 どうやら私がいくら暴れたところで事態は好転しないらしいと気付いてからは、フィットボクシングに励むようになった。無論、彼氏を殴り飛ばすためである。
 

どうして友人の彼氏を殴ろうとするのか

 彼をK氏(彼氏だけに)と呼ぶことにする。Kはわちこの後輩だった。私に言われたかないだろうが、わちこは変人であり、そんなわちこを好きになるKも聞く限りかなり変わった人だった。わちこはKとお付き合いをするとき、「私にはひらやさんという友人がおり、彼女を最優先にしないと拗ねるのでそれでもいいか」というようなことを条件として話したそうなのだが、Kは承諾したという。さらに「もし結婚して一緒に暮らすならひらやさんを連れていくので彼女の部屋を一部屋用意しなければならないが、それでもいいか」というようなことを聞き、それにも了承したと噂に聞いた。どこまで本当かはわからない。
 私ならそんな訳のわからないことを言う女は困るが、Kはわちこを好きすぎるあまり、嫁入り道具のようについてくる知らない女など大した問題ではないと思ったのかもしれない。
 Kは、友人から「恋人に指輪を買うのに緊張するから一緒に来てくれ」と頼まれ、付き添っているうちに「俺も指輪あげたい」と思いたち、友人そっちのけで突如わちこへの指輪を選び出す男であったし、わちこの実家へ挨拶に行った際は肝心の話を切り出さずにもじもじとタイムオーバーをキメた結果、帰り際退室を促される中「あの……それでは結婚してもよろしいということでしょうか?」と言い出す男であった。
 
 わちこは幾度となく私にKを会わせようとしていたが、そのたびに私は「まだ身体が仕上がってない」と拒んだ。
「人の彼氏を殴るな」と言いつつも長らく「Kには会いたくない」という私の意思を尊重してくれていたわちこだが、あまりにも私がなあなあにしようとするのである日遊びの約束を取り付けたあと、「Kも連れていきます」と後出しで宣い、ついにめちゃくちゃ強引に場を設けてきたのだった。
 前日の夜、入念にフィットボクシングに励んだ。ここで念の為、そもそもなぜ人の彼氏を殴ろうとするのか、という疑問に答えておきたい。私はそこそこ大人なので、今まで何人もの友人の恋人・伴侶を紹介されてきた。どの男性も礼儀正しく、私にも気を遣ってくださるのだが偶に、友人を指すとき「こいつ」、「お前」と宣うことがある。それを聞くと私の腕は、呪いを受けたアシタカの右腕のようにブルルンドゥルンと震える。男性の顔は先ほどまでと変わらない笑顔で、隣にいる友人も笑っている。私だけが大切な友人を「こいつ」呼ばわりされた屈辱に震える。たかが数年前に知り合ったぽっと出の男が、長年大切にしてきた友人にこんな無礼を働いていいのか……?私は引きつった笑みを浮かべて毎回帰路につく。悔しい。「いやいや、お前はないっしょ(笑)」くらいは言えたらいいのに、所詮イキリオタクでしかないので、布団の中で震えることしかできない。しかし、今回はそんなわけにいくものか。私はKよりもかなり歳が上だった。もしわちこに対して、というかもう正直に言うが私の目の前でわちこを「こいつ、お前」呼ばわりしようものなら殴るつもりでいた。「小僧、私を舐めるなよ」と言いながら、Kには申し訳ないが今まで無礼を働いてきた男性への鬱憤もすべて一手に引き受けていただくつもりだった。年下相手なら強気で行ける気がする、自分のそんなところを「典型的なイキリオタクであるなぁ」と愚かに思いながらも、自身の身体をギュッと抱きしめて眠った。


殴るのは無理

新宿東口の広場でKを見た際の第一印象は「なんか、ちょっと隙をつかないと無理そうだな……」だった。スポーツをやっていた、というのは聞いていたが、Kは長身で体格も立派な好青年であった。ジムで習っているならまだしも、画面の向こうでベルナルド(CV.大塚明夫)がサポートしてくれるだけのリズムゲーしかしてこなかった私には、やや荷が重い。

関係ないけど、趣味でベルナルドに眼鏡をかけさせているのも相まってなんかダメな気がしてきた。

 簡単に挨拶を交わした後、歌舞伎町にある古いビルを一棟丸ごと使ったアートイベントをともに回った。私とわちこはサブカルともアングラとも言い難い、シュールで仄暗いコンテンツを好んでいたが、Kはホラー全般がダメだとのことで、このイベント自体もなんとも居心地悪そうにしており、好き勝手に動く私たちの後をあまり懐いてないピカチュウのようについてきた。夕食は会場内にあるレストラン(というほど立派でもない飲食ブース)で食べることにした。イベントの一環で、死刑囚が刑執行前に食べる「Last meal(最後の食事)」を再現したメニューが体験できると聞いていたのだ。「人気で入れないかもね」「そしたら適当に鳥貴族とか行きましょう」などと心配していたのが、全くの杞憂で終わった。展示はあんなに人でごった返していたのに、30人ほど入りそうなスペースにはまるで人がいなかったのだ。澱んだ空気とシュールな内装の空間で食べるチーズバーガーやフライドチキン。異様な場の空気に飲まれたせいか、味はまるでわからなかった。ある意味コンセプト通りの楽しみ方ができたと言えよう。

1200円。ビクターファガーの「オリーブ1粒」も1200円。

 ある程度食べ進めてからわちこが取り出したのは婚姻届けだった。
「証人の欄、一番の友達に書いてほしくて」
うれしい。大人になってから出会った人の親友に、それも婚姻届けの証人に選ばれるほどの仲になれたことが、改めてうれしいと思った瞬間だった。婚姻届けに目を落とす。え、でも今ここで!?こんな大切なイベントを、死刑囚のご飯を食べながら(フライドチキンの油がつくかもしれんのに)こんなところで済ませていいものだろうか?
「Kくんのほうの証人はもう書いてもらってて、あとひらやさんとKくんの本籍地だけなんです。月曜に役所に出します」
「せわしねぇ〜!今日金曜なのに!?いやもう書くよ、書くけどさ……2つお願いがあって……」
「なんですか?」
「あのね、私はロマンチストだからもっとなんか……綺麗なところで書きたい、死の気配を感じないようなところで」
「まあいいですけど……もうひとつは?」

「婚姻届け、私に出させて。私が2人の知らないうちに役所に出しに行く」

それが訳の分からぬ感情に狂いに狂った私の、感情の落としどころだった。


証人だけでは飽き足らず、結婚記念日を独占することにした

 話がズレるが、私の母は、自分で婚姻届けを出すことができなかったそうだ。結婚式の準備の合間を縫って二人で出しに行くつもりが、義父(私の父方の祖父)がよかれと思って勝手に出してきてしまったのだという。そのせいで「いい夫婦」の日に出すはずが、訳の分からない日が記念日なって何の愛着もない、と幼少期から愚痴を聞いていたのを思い出したのだ。個人的にめちゃくちゃ好きなエピソードではあるが、ここで肝心なのは「他人でも婚姻届けは出せる」という点だ。
「私が届けを勝手に提出したい。二人の結婚記念日を私だけが知っていたい。1年後に教えてあげるから、それまで誰にも教えたくない。ワインとケーキ持って、突然家に押しかけて”今日何の日だ!なんと結婚記念日でした~!知らなかったでしょ〜”ってサプライズするから。お願い!もうこの機会を逃したら私は一生婚姻届けを出すことがないかもしれない。かわいそうだと思わんのか!?いやでもそれってわちこも同じだよな、ごめんね。でも私に出させてくれ、頼む!!!」
 私は婚姻届けを前に二人をじっと見つめた。断られたらもう「だったら新居に私の部屋を用意しろ」と暴れ狂う予定だった。私の奇行に慣れているわちこは半笑いだったが、Kも半笑いだった。そして少し考えた素振りを見せたあと「面白そうなんで、いいですよ」と言った。よくないだろ。何考えてるんだお前は。

署名をするにあたってレシートに自分の名前を練習する私


その横でバッグに溢したのど飴を整列させるK


友達・家族には訳分からんくらい反対された

 少し後で、すべての項目が埋まった婚姻届けと、2人分の戸籍謄本を預かった。準備が整ってしまった。
 私は「友人の婚姻届けを勝手に出そうとしている話」を会う人会う人にした。反応は様々だったが、9割9分の人が引いていたように思う。覚えている限りのセリフをここに記す。
 
友人A「え~……わちは本当にそれでいいの?私なら一生に一回のことだから自分で出したいけどな」
 →それは本当にそう 私なら断る。わちこがイベント事に執着のない人間だったことが功を奏した
 
後輩B「は~~なるほど……愛ですね……」
→愛ではない、どう考えてもエゴ あとそんなに引くなよ

母親C「正気?あんたさ、結婚って人生の一大イベントなんだよ。他人が干渉していいもんじゃないでしょ。相手の親御さんなんていってるの?は~~呆れた、ありえない。信じられないよ。大体戸籍謄本がどれだけ大事なものか知ってるの?いくらだって悪用できるんだから、他人の戸籍謄本まで預かって……本当に馬鹿。誰がこんな子に育てたんだろ……ねぇ、ちょっと話し合って考え直した方がいいんじゃないの?」
→祖父に婚姻届けを出されたトラウマで思い出し怒りしちゃってるじゃん

多くの人たちに反対された私はいよいよ引っ込みがつかなくなり、カレンダーを見ながらいつ出しに行くかを考え始めた。「〇〇の日」も調べたし、”縁起のいい日”も調べた。有名人の誕生日、語呂のいい日、私が会社を抜けられそうな日、跡部景吾の誕生日──ふたりの結婚記念日をいつにすべきか、慎重に考えた。同時にどの区役所に出すかも考えた。基本的に戸籍謄本があれば基本どの役所でも出せるが、港区だけは「夫になる人及び妻になる人」しか出せないらしいということも知った。

そんな折、私の奇行を見守ってくれていた友人のCちゃんが「私、写真撮りにいこうかな」と言い出した。
「せっかくの記念だから一緒に行ってさ、写真撮って出すの見守っててあげる。それで帰りにちょっといいレストランでお祝いしよう」
「え……本人不在の結婚祝いってこと……?良すぎる」
「メッセージプレートつくってもらおう」
「え~~最高!結婚おめでとうの文字を前にふたりでわ~~~~って拍手しよう」
「お店の人に”おめでとうございます”って祝福されても(当事者不在ゆえ)ふたりで曖昧に微笑んでいようね」
役所からはひとり泣きながら帰ることになろうと思っていたが、一気に楽しい計画となってきた。また事務手続きに対して苦手意識がある私にとって、既婚者であるCちゃんの存在は心強い。あれよあれよと日時、提出先の役所を決めた。

勝手に婚姻届を提出しに行った

 夕方まで仕事をしたあと「区役所に行くので」と言って会社を早退した。これから他人の婚姻届を出しに行くなど、誰も想像していないだろう。Cちゃんと合流し、役所へ向かう。
「……直前になって私が“やっぱり出したくない!”って婚姻届けを破って逃亡したらどうする?」
「“そうだね~寂しいね、いやだねぇ。今日は帰ろうか”って宥めたあと、後日わちちゃんには”あの人婚姻届けを出さないで逃亡したので、自分たちで出した方がいいですよ。あとこの先の付き合いも考えた方がいいかも”ってDMするよ」
 信頼に値する友人の手を握り、受付の人に「婚姻届けを出したいのですが」と尋ねた。「おめでとうございます」と謎の祝福を受け案内された窓口で、整理券を取ってソファで待機する。目の前には恐らく、婚姻届けを出しにきたらしき仲睦まじい男女がいた。夫婦になりにきたのだろうか。(9割そうなんだろうけど世の中には例外もいるので……)
 わりとすぐに呼ばれ、私たちは横並びで着席した。眼鏡をかけた真面目そうな男性に婚姻届けと戸籍謄本を提出する。彼は淡々と確認作業に入り、記入漏れがないことを確認した後、「ではご本人を証明できるものをお見せいただけますか」と言った。

 ここまで確認されなかったせいで何も言わなかったが、まあ当たり前と言うかなんというか、おそらく彼は私を「わちこ」、Cちゃんを付き添いの友人だと思っているらしかった。私は免許証を出しながら「すみません、言うタイミングを逃していたのですが、実は、私本人ではなくて……」とおずおずと申告した。
それまで顔を伏せていた彼は「え?」と意表を突かれたような声を出して顔をあげた。その表情は完全に「え、じゃああんた誰?」の感情で満ち溢れている。

 そして私を「待てよ?じゃあ……お前は証人欄の友人だと仮定して、」という顔で見たあと、「この人は誰?」という顔で隣のCちゃんに視線を移した。絵に描いたような困惑っぷりだったが無理もない。
「私は妻となるものの友人、隣にいる女性はそんな私の友人、わちことは顔見知りでまあ友人と言っても過言ではないかもしれません」と説明するか迷ったがやめた。聞かれていないことは答えないほうが上手くいくことが多い。この年まで生きていて何となく身につけた処世術なのでみなさんも心のどこかにしまっておいてください。
 
 役所の方はそれ以上踏み込まず、「では……こちらにご自身のお名前と、妻となる方の電話番号をご記入ください」と言った。

電話番号……!?
ライン通話がある今の時代、案外友人の電話番号を知らない人は多いのではないか。今度は私が動揺する番だった。Cちゃんを見る。Cちゃんも私を見て、こくりと頷いた。言葉がなくとも分かり合えた。「最悪の事態になったら、私の番号を使え」というサインだ。しかし極力、不安要素は取り除いておきたい。
平日の夕方なので本人に確認するのは難しい……いや、それ以前に確認すれば「あー、今日が入籍日なのか」とバレてしまう。ラインの履歴から必死にわちこの番号を探す。何とか自宅にプレゼントを送る時に聞いておいた住所と電話番号を見つけ出し、額の汗をぬぐいながら番号を記した。

本人たちの許可を得て出しに来たわけで、決して怪しい者ではないのだが警戒されているような気がしてヒヤヒヤしていた。「あの、詐欺とかじゃないんですよ」と弁解しておくべきか迷ったが、余計なことはしないのが吉である。
「では確認に入りますので、そちらでお待ちください」
 先ほどのソファに腰掛けながら息を吐く。しかし、待てども待てども呼ばれない。あらかじめ受理されるまでの所要時間を身近な既婚者の方々にヒアリングしていたのだが、祝日に窓口に出したCちゃん、夜間時間に警備員に渡したという兄はそれぞれ10分もかからなかった、と言っていた。じゃあ20分もあれば行けるかぁと呑気に考えていたが、役所の窓口ではかかる時間が違うのかもしれない(それか私を怪しんで入念に確認をしているかどっちかだろうか)。
あと15分ほどでレストランの予約時間が来てしまう。私はふと、あんなに情緒が乱れていたというのに、レストランの時間を気にしているなんておかしいな、と思った。
 
 
 念の為店に遅れる可能性がある、と連絡したあと、結局閉館時間ぎりぎりになって「受理されました」と報告を受けた。結局45分ほどトータルで掛かったと思う。
 本人たちには後日通知が行くらしい。結婚記念日まで通知されるのかが少し不安だった。

「こちら記念品をご結婚された方に……お渡し……しているんですが」
私は本人たちに渡しておきます、と受け取った後、「……あの、やっぱり第三者が出しに来るっていうのはあまりないケースなんでしょうか」と尋ねた。第三者が出しに来ることもそれなりにあろうぞ、と思っていた私に取って、彼の反応はあまりにも予想外だったのだ。

「そうですね……第三者といってもご親族であることが多いです」

 当たり前のことを言われてしまった。私はそれはそう、と呟き「どうもお手数をおかけしました」と頭を下げると足早に役所を出て、駅に向かった。途中、駅中にある花屋の前で思わず立ち止まった。店頭に出ているプチブーケが綺麗だ。Cちゃんが「買っていく?」と立ち止まってくれた。ノーブルなホワイトベースのブーケは、結婚という門出を祝福するのにぴったりだった。一方で、季節のブーケとして用意されているハロウィンモチーフのブーケも可愛らしかった。ダークトーンのエキゾチックな花がまとめられている。少し考えてから、ハロウィンブーケを購入した。この世の季節行事に一切興味を抱かないわちこが、唯一ハロウィンだけには執着していたのを思い出したのだ。

一度もわちこの目に触れることのなかったお祝いブーケ

 レストランに行き、購入したブーケをテーブルに添えてCちゃんと二人で「結婚おめでとう」と乾杯した。コース料理を堪能した後、あらかじめ頼んでおいたデザートプレートが運ばれてきた。なぜかメッセージが2皿に分けられ(たぶん普通に長かったから……)、特に「おめでとうございます」とも「お写真お撮りしましょうか」とも言われないというまさかの逆サプライズを受けた。

 何となく解散するのは惜しかったので、少しぶらぶら街を散歩し、普通なら見逃してしまいそうな喫茶店に入った。こじんまりとした店内には1階にカウンター席、階段を上ると少し広めの席があるのだが、その壁をびっしりと埋め尽くすように本が並んでいる。有名な小説からニッチな漫画、専門書など幅広いラインナップで、興味を惹かれながら階段を一歩、また一歩とノロノロ進んでいった。メニューも豊富で、今コース料理で腹を満たしてきた己が憎くなった。店員さんが勧めてくれた本と適当に本棚から引っ張ってきた本を机に積み上げてコーヒーを飲む。明日提出しなければいけない企画書のことを考えながら「みんなの精通」という精通に関するエピソードがまとめられたものを読んでいた。「これは絶対嘘。夢見がちの童貞の匂いしかしない」というものもあれば、かなり浪漫を感じる良エピソードもあった。店の雰囲気もよく、コーヒーも美味く、ひかり輝く精通エピソードを得ることもできた。今度わちこにも教えてあげよう。結局いい時間まで堪能してから家に帰った。

そのあとのこと

 1人で役所に行っていたら得られなかった1日だろう。花を生け、結局徹夜して企画書を書き上げることになったが、後悔はなかった。始業時間まで数時間仮眠をとった。目を覚ますと、少しだけTLが騒がしくなっていた。某俳優の結婚報告によるものであった。その俳優はCちゃんの推しであり、私も知っているほどご活躍されており、そしてわちことほんの少しだけ由縁のある方だったので、眠気が一気に吹き飛んだ。
朝の投稿にも関わらず「本日入籍しました」と報告されていたので、ふと頭の中で考えを巡らせた。役所が開いてすぐ、朝イチで届けを出しに行ったのだろうか。ご本人が出したのだろうか。役所のソファで30分、待ったのだろうか。

 Cちゃんからはラインで一言「おしかったね…」と連絡があった。
惜しかった。一緒の日だったらなんだかドラマチックだったけれど、ニアピンなところも「らしい」と思った。このことを是非わちこにも話したい、とも思ったのだけど、結果入籍日をバラすことになるので諦めるしかなかった。話せるのは1年後なのかと思うと歯がゆい。というか1年経ったらこの面白みはゼロになる。

なんとももどかしく、この新鮮な気持ちを閉じ込めたくて、1年後の未来に手紙を送れるポストがあることを思い出して調べた。結婚記念日を忘れずに報せることができるし、俳優の結婚記念日とニアピンとなったことや昨日読んだ知らない人の精通エピソードも話せるし、名案だ!と心はウキウキだったが、程なくして計画は頓挫した。

わちこから「母が入籍日を知りたがっているので教えてもらえますか?」と連絡が来たのだ。それじゃあ私がこっそり出しに行った意味ないじゃんか!!!という気持ちと、そりゃ娘に入籍日を聞いたら「知らない」って返ってくるの、困惑だよな…という申し訳なさでいっぱいになった。

流石にご両親相手に「教えません」という選択肢を取ることはできず、「あなたは⚪︎月⚪︎日に入籍しました。ご結婚おめでとうございます」と送った。
 
 そもそもCちゃんがいた時点でわちこの結婚記念日を独占するという私の野望は破綻していたのだが、それでも、届けを出させてもらって良かったと思っている。あの日から少しずつ私の心は凪いでいき、突然情緒がめちゃくちゃになることも無くなっていた。わちこの名字が変わっても、彼女が誰かと一緒に暮らすことになっても、私は企画書を出すために徹夜しなければならないし、企画書がダメならやり直しになる。

 「仕事できなくてもしょうがないね、わちこが結婚しちゃったんだもんね」と誰かに宥められることはなく、私は私の人生を当然のように歩いて行かなければならないのだ、という当たり前のことを、あまりにも通らない企画書に苦しめられていたせいで思い出したのだ。

 
 その後の話をしよう。わちこはK氏とともに新居へ移った。私も最近遊びに行かせてもらったが、いいお家だった。お泊まりもさせてもらったしKお手製の炊き込みご飯(美味い)もご馳走になった。

わちことは相変わらず遊びに行ったりご飯を食べに行ったりするのだが、なんか知らんがそこそこの確率でKがついてくる。「友達との遊びに彼氏を連れてくる女」という概念を憎んでいた私は「ハァ?」と憤るかと思いきや自然と受け入れていた。わちこは私を放置してKといちゃついたりしないし、Kは普通に私たちの会話に参加してくる。思っていた概念とはだいぶ違ったのでひとまず通してみることにしたのだ。

それでも、あまりにも回数が多い気がしたので「来すぎじゃね?」と形ばかりの苦言を呈してみたが「まあまあ、いいじゃないですか家族なんだから」と丸め込まれた。まあそうだな。私たちはゆくゆく家族として同じ屋根の下で暮らし、私は日当たりのいい部屋を一室もらうのだからこれくらいはね。
 
 私はと言うと、パルムを食べながら宣言したあの日から約2年の月日を経て、ついに引っ越しを完了させた。あまりにものんびりしている私の尻をわちこが叩いて渋々揃えた冷蔵庫と洗濯機、電子レンジ、そしてカーテン以外は何もない独房のような部屋で生きている。どちらも自分の希望エリアから譲歩しなかったせいで、私の家からわちこの家まで電車で1時間半かかる。かつて浦和美園まで2時間かけて遊びに行っていたことを考えれば、2年で30分距離が縮んだと言えよう。この調子なら6年後には私たちは家族として共に暮らすことになるだろう。そう、練馬辺りに。

 完


わちこが結婚1周年を迎えました。おめでとうございます。これからも末長く幸せでありますように。


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