Live and Let Live 増補改訂版① Death In June
[10/24更新] アルバムジャケット追加、『イメージとの闘い』に加筆
収録内容
・本能的変身 (ロンドン・パンク)
・クラスとクライシス (クライシス、クラス、Rock Against Racism)
・デス・イン・ジューン (バンド結成)
・イメージとの闘い (オカルティズム・シーン)
・ダグラス・ピアース=DIJ (ソロプロジェクト化、『Brown Book』、日本公演)
・ネオフォーク (『Symbols』、ネオフォーク普及とフォームとしての確立)
・クロアチアとユーゴ紛争 (『Something Is Coming』)
・離別と合流 (ワールド・サーペント・ディストリビューション、オーストラリア移住、Der Blutharsch、OSTARA)
・トニー・ウェイクフォード (ソル・インヴィクタス)
・パトリック・リーガス (シックスス・コム)
・歌うための苦しみ (『The Rule of Thirds、『Peaceful Snow』)
・儚む歌 (Brexit、クライシス復活に対して)
2015年にデス・イン・ジューンはカナダ・コマンドー・ツアーを興行した。この名前の意味するところをすぐに受け止められた人がどれだけいるかは不明だが、前身であるクライシス時代に書いた曲からとったツアー名は、過去を封じていたことはないとの宣誓であり、当時の試みは今もなお継続されていることを証明していた。英国に飛散った炎から生まれて灰になったパンク・バンド「クライシス」と、ラオコーン像のように鎮座するDIJは、その外面的な温度から政治的なスタンスまで相反するように見える。実際は中立を含めたイデオロギーこそがターゲットの一つになっており、そこに内包される人間たちは下級層のキッズからナチスの高官まで等しく並列されていた。しかし、その試みは最初から完成、達成されていたわけではない。クライシスを終えDIJへと至る時、デヴィット・チベットらと多種の文献と知識を共有した時、真の故郷と見定めた地へ移住した時・・・ダグラス・ピアースの経路に浮かぶ分岐点と、そこれでの彼の選択が積み重なることによって、DIJの立証はより強固なものとなり、それはいまだに続けられている。 ピアースに炎を灯し、それを焚き付けたのはパンクだった。音楽のハードルは想像以上に低く、自分でレコードを出すことも同様に簡単であること。70年代前半以前の音楽は退屈極まりない、限られた層が楽しむもの。早い段階でドグマとなってしまうパンクだったが、ピアースはそれがルール化する以前の一瞬に立ち会うことが出来た。 逆説的な結果を含めて、パンクは未来を作り出した。それは一つに限らず、ビッグバンと形容される程に多様な生態を作り上げたのだが、ピアースの周囲ではパンクに刺激されつつもスタイルとしてのそれには辟易していた者たちが少なくなかった。今日ではポストパンクと呼ばれている現象の少なくない部分を担った人々である。彼らの多くはアートスクールやカレッジで芸術を学んでおり、最初から9時から5時の生活、滅私奉公の道を選ぼうとしていなかった。国から下りる助成金などのシステムの恩恵に授かりつつも、それの一部になることを拒んでいた者たち。彼ら彼女らはそれぞれが独自の変化を経て、結果としての多様性を実現した。ピアース本人や周囲の面々は、パンクが訴えていた抑圧からの自由のほかに、精神的なそれも求めていた。汎用なパンク・フォロワーとピアースの違いはここで、パンクが否定していたサイケデリックやヒッピー、つまり60年代を重要視していたことにある。ピアースと同志たちにとっては、後者の方がより創造的で自由だとして、彼らが謳歌した80年代は二度目のサイケデリック全盛期へと発展していく。やがて、この没入がデス・イン・ジューン(DIJ)を象徴するネオフォークという生態を生むと同時に、ピアースの壮大なロマンの旅路を支えるものとなっていったのだった。
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