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雪割りの花咲かずとも詩興湧く

 Youtubeに自レーベルSuikazuraのチャンネルを開いたはいいが、更新が滞ってばかりである。アップする内容は近況報告や過去の製作物を紹介するものだが、音声が小さいわ制作ソフトのロゴがテキストとかぶるわと課題が多い。質を上げるためにもコンスタントに更新して都度改善しなければいけないのだが。どうも冒頭のあいさつなど、他人が見ていることを意識するのが苦手だ。
それはともかく、チャンネル登録者数が50を超えると配信できるようになるらしいので、レトロゲーム配信者としての筆者を開花させるためにも下の動画から登録をお願いしたい。

 本題は上の動画内でも話しているプレイステーション用ソフト『雪割りの花』だ。

[『ビデ再』が全然書けない→『雪割りの花』を起動する→98年の空気を感じ取り、思い出し、アンニュイになってそのまま寝る→起きたらやっぱり文章が書けない]

最近はこのルーチンである。

 『雪割りの花』はSCEがかつて展開していた『やるドラ』シリーズの一つ。「見るドラマからやるドラマへ」を売りにしたアドベンチャー(今ならヴィジュアルノベルか)で、四季それぞれをテーマにしたソフトが作られている。この『雪割りの花』は冬、つまりシリーズ最終作にあたる。いかにもアニメ調だった前3作からキャラクターデザインが変わり、プロデューサーの山元哲治いわく「ビッグコミック系」になった。ムーンライダーズの白井良明によるブルージーなギターサウンドも相まって、ケバくなく、侘しささえ感じられる空気が一貫している。
余談だが、要所で鳴るエレキギターや、電柱を捉えたカットの挿入には当時放映終了して間もなかった『serial experiments lain』の影響を感じる。ちなみにPS版『lain』と『雪割りの花』は同じ発売日であった。

 PS時代の『やるドラ』シリーズは、すべてのタイトルに「記憶を失ったヒロイン」という設定が用意されている。秋にあたる『サンパギータ』では東南アジアを舞台にマフィアなどが絡んでくるという、いかにもフィクションな筋書きであった。対して『雪割りの花』は、北海道にある小さな街が舞台で、ヒロインがアパートの隣人の女性というスケールの小ささが生々しい。ヒロインは20代後半の婚約を控えた女性・花織で、プレイヤーは彼女に思いを寄せる隣人の大学生。ある日、婚約者の事故死を知ったショックで記憶を失った花織に対して、大学生はその婚約者になりきって偽りの恋愛を花織と続けるというシナリオだ。見知らぬフィリピン人女性が目の前に現れる『サンパギータ』のプロットは、制作側の人間の欲求が透けて見えるようでアレだったが、ヒロインが隣人である『雪割りの花』もまた、都合の良い異性の到来を求めるバチェラーのサガを刺激する(プレイヤーが若さを持て余している大学生というのもまた...)。交際の過程で、花織は以前と人が変わってしまったようにふるまう婚約者に肉体的な欲求不満を、プレイヤー側は死んだ恋敵がかつて彼女と交わしていたことに嫉妬を感じる。こんな風に心のさもしい部分を狙い打ってくる。人恋しさに悶える独り身に容赦がない。

 タイトルにもなっている雪割りの花ことミスミソウは、ゲーム内で雪を割って咲くことで春を知らせる花と説明される。記憶を失った花織の停止した時間は雪に見立てられ、プレイヤーの選択次第で溶けるか、あるいは踏みにじられてしまうか分岐する。5つあるグッドエンドの中で大団円的な内容(婚約者の死を受け入れた花織と主人公が、婚約者の墓に花を埋める場面で幕を閉じる「雪割りの花」エンド)もあれば、まるでそこに至るまでの過程を描いたリアルな内容もある。周回前提で作られているゲームだけに、直線のルートをあなぬけに見せる仕様はなかなかニクイ。特に、偽っていた主人公のことを拒絶した花織が、時折彼の部屋を訪れるようになる「雪解け」エンドはよかった。わずかなぎこちなさから出発した幸せの描写もゲームをとりまく雰囲気にぴったりだ。

 『雪割りの花』リリース年である98年時点で筆者は10歳。このゲームのアダルトなテイストはもちろん、当時『お嬢様特急』だとかと同列に扱って喧伝していたゲーム雑誌に顕著だった時代の空気を理解できていたわけではなかった。ただ一つはっきり言えるのは、当時の漠然とした記憶が自己の奥底に沈殿しカクテル状になっていることである。Aを思い出そうとしたら他のBやCが混ざり合うため、対象だけを思い出すことなどできない。ゲームのことを考えているのか、それを遊んでいた時代のことを考えているのか、この2つのことを考えている自分について考えているのか。どれも正解だし、不正解といえる。これは『ビデ再』の主題(の一つ)であり、読者にもそのハッキリしない感情が伝われば、言い方が合ってるかは別として、成功だろう。いろいろなゲームを振り返ってはいるのだが、不思議と『雪割りの花』は上で述べた魅力的な曖昧さを一段と呼び起こす。

 『ビデ再』を書くうえで重要な指針になっているのはマーク・フィッシャーが提唱していた憑在論と、米国生まれのゲームデザイナー、ローン・ラニングによるOddworld Inhabitants製ゲームである。ここでは二者の説明を省くとして、制作期間中にもう一つ、本書のコンセプトを促進させてくれるものに出会った。より正確に言えば、『雪割りの花』同じタイミングで再読したおかげでそう相成った。永井荷風の『濹東綺譚』である。

 筆者がこの小説を知ったのは、ことあるごとに読み返す後藤明生『小説–いかに読み、いかに書くか』で取り上げられていたからだが、憑在論〜ノスタルジー〜過去の再創造という前提を得た今になって、ようやくその真髄に触れられたという気持ちがある。
 『濹東綺譚』では、関東大震災とその復興の過程で消え去っていった浅草周辺の下町の風景がフィクションとして再生されているが、それは言い換えれば記録(口承)することでもある。偏執的ともいえる町並みの描写、特に路地の名称や目的地に至るまでの過程の説明などは、荷風にとって「かつて存在した」場所を訪れ直すことであった。そこで出会う女娼との時間で心に若さを取り戻したと語る主人公に、ひょっとしたら『雪割りの花』を読む自分を重ねているのかもしれないと筆者は思ったことを告白しておく。記憶の迷宮として作られた下町が舞台であることにくわえ、小説内では主人公である作家が『失踪』という小説について思案する入れ子なくだりが挿入されることで、荷風が現実を描く手段としてのフィクションに自覚的であったことを教えてくれる。先に述べた『雪割りの花』とのリンクを抜きにしても、ここに過去を再生するのではなく再び訪れて文章として遺したいと願ってやまない筆者を重ねるなというのは無理な話だった。眼前の風景をノスタルジーという染料で着色し、かつては心情を全円的に開花させるチャンスがあったことを記す。そうすることで逆説的に現在がその季節のさなかであることの証明になるかもしれない。灰色の現実は、それゆえに輝きを探すように急き立てる。
 最後に『濹東綺譚』を再読しようと思ったきっかけ自体は、つのだじろう『その他くん』によるところが大きいことも添えておく。


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