ネオフォークはパンクから生まれた①Tony Wakeford (Crisis,Death In June,Sol Invictus)
※本記事は過去に公開したものが手違いで消えてしまったため(血涙)、加筆部分込で書き直したものです。
77年のロンドンに登場し、80年5月公演(MagazineとBauhausのサポート)を最後に解散したパンク・バンド、Crisisが2017年にラインナップをほぼ一新して復活した。
レジェンドと称されるバンドの再結成は大抵が金策目的だが、Crisisの背景にはオリジナル・ベーシストであるトニー・ウェイクフォードの個人的な理由があった。それには英国のEU離脱、いわゆるBrexitに象徴される世界的な保守化・反リベラルの風潮が関係している。状況が深刻になればなるほど表現の強度が増すといえばいいのか、Crisisは過去の曲を披露するだけにとどまらず、2019年からは「新曲」をリリースするようになった。決して懐メロとなったシングル曲を繰り返すわけではない。
Crisis復活の前兆は、ウェイクフォードが自身のネオフォークバンド、Sol Invictusと並行してスタートさせた「1984」だった。これはチェンバーな編成とアコースティック主体であるSol Invictusから少し離れた電化フォークで、レパートリーにはCrisisの曲も含まれたウェイクフォードの息抜きの一つであった。しかし、2016年にBrexitが決定したことをうけ、ウェイクフォードは懐古的な理由でCrisisの曲を持ち出さなくなった。2017年に1984の名をCrisisへと改めてからは、英国社会の「現在」に向けて歌うことを選択したのである。Crisisの楽曲には70年代が旬だった固有名詞(ソ連)やテーマ(タウンホール建設などの都市開発)が登場するため、表面的には詞に年月を感じることもある。だが、ジョージ・オーウェル『1984』が再び説得力を持ってメディア上に比喩として挙げられる時代において、それはたいした問題ではない。
バンドを本格的に再始動させるにあたって、ウェイクフォードはSubway SectからAlternative TVにまで参加していたクライヴ・ギブリンや、親交のあるネオフォークバンド、Naevusのロイド・ジェームスとローラ・ターナーに声をかけ、新生Crisisを作り上げた。新生と書いたのは、Crisisオリジナル・メンバーはウェイクフォードのみで、ギターを弾いていた共同設立者ダグラス・ピアース(現Death In June)は不在であるからだ。
ウェイクフォードがCrisisの名を使うように考えた理由は、彼らのようなロンドン・パンクが若い世代に再発見されていることを実感してのことだった。ウェイクフォードは1984としての公演で訪れていたパリのバーで、かつて自分たちが歌っていた曲がBGMとして流れていたことに驚いたと『Feat And Loathing』のインタビュー内で話している。
The Pop Groupのような当時のバンドが再結成する傾向もあってか、ロンドン・パンク~ポストパンク時代の音楽、それも直情的なまでに政治的なそれらが何度目かの再評価を迎えている。冷戦下とサッチャー政権時代を貫いていた緊張感から生まれた表現がBrexitを境に再び震えだす現代に再び生気を取り戻したのか。もしくはその時代を知らない世代だからこそ、そこに希望を見出すのか。
今日、Crisisが話題に上る時はたいていが後のキャリアであるDeath In June~Sol Invictusとの比較、そのギャップにおいてである。「労働者階級のパンク・バンドが何故か全体主義とナチズムへのオブセッションを抱き、ネオフォークと呼ばれる欧州発のナショナリスティック表現の主流を作り上げた」といった具合だ。このコントラストは左派からの批判的言及はもちろん、右派にもリベラルに疲れた運動者の実例とみなされ、今日まで利用され続けている。二者に共通するのは情報を更新しないまま当事者と彼らを取り巻く現象に言及していることだが、この状況はなかなか改善しない。その理由にはDeath In Juneがめったに表へ顔を出さないことと、勝手な神格化を続けている後続のバンドによって消費される「シーン」が出来上がってしまったことなどが挙げられる。Sol Invictusの場合は、ウェイクフォードが取材にも積極的なおかげで現時点でのステートメントを説明する機会自体は多い。だが、彼に接触してくるメディアは多くが最初から「彼側」に寄っているものであった。大抵は既知の情報(勘違いされるが民族主義者ではない、など)の確認作業であり、それ以上彼を深堀する場はそうない。
いくつかのメディアはCrisisの復活を取り上げたが、35年にも及ぶ空白を経たバンドの歴史を俯瞰しようと試みたものは少ない。Feat And Loathingのインタビューは、彼個人のキャリアを掘り下げつつバンドの現役時代、ロンドン・パンク全盛の瞬間を検証している点で貴重だ。以下は同インタビュー含めたいくつかの記事と筆者が過去調べてきた情報をベースに、Crisisの誕生と解散までをまとめた。
トロツキストのパンクバンド
Crisisの物語はそのままDeath In June~Sol Invictusの主要人物となるトニー・ウェイクフォードとダグラス・ピアースの物語だ。ウェイクフォードは労働党の会合に、ピアースは伝統的なトロツキズム色濃い国際マルクス主義者グループ(The International Marxist Group)に出入りする若者だった。二人が出会ったのも左派系運動の現場で、典型的労働者層に生まれた二人は「25歳以下で髭を生やしていなかったこと」を共通項に親睦を深める。
Status Quoのようなロックが好きだった二人を襲ったのがパンクで、それまでは既成のハード・ロックやプログ・ロックのように敷居の高かった音楽が途端に身近なものに感じられたと二人は別々のインタビュー内で回想している。トニー・ウィルソン(後にFactory Recordを創設する)がホストを務める番組『So It Goes』でThe ClashやSex Pistolsを目の当たりにしたウェイクフォードは、すぐさまピアースに電話をかけてバンドの結成を持ちかけた。ピアースはギター、ウェイクフォードはベース、ドラムは頻繁に入れ替わりこそしたが、募集をかければ誰かしら連絡がきたというのだから、当時のバンドブームの勢いがうかがえる。結成の案が出たのが76年の終わり、実際に活動し始めたのは77年6月になってのことだった。
バンド名は、どんな時代でも存在した普遍の状況を示すものであり、冷戦下では特に使われたであろう語「Crisis」(危機)となった。さらにバンドのトレードマークとなるのは60年代後半のパリで出回った「CRS(フランス国家警察)はSSだ」という意の風刺画だった(Crisisとのスペル被りを意識しないわけがない)。赤と黒の二色刷りということ相まって、バンドの自己紹介としてはこれ以上ないものとなった。
Crisisは演奏の場を得るのに苦労しなかった。自分たちも参加する労働者の集いやデモ行進を通してRock Against Racism(この政治運動については映画『白い暴動』を見てもらうのが手っ取り早い)に関わるようになったバンドは、早くからCRASSやSHAM 69らと同じステージで演奏した。
「インターナショナル」の名のもとに、Crisisはロンドンだけにとどまらず、地方でも演奏した。時にはSWP(社会主義労働者党。米国の同名党とは別)と交信していたノルウェー労働者党のためにスカンジナビアを訪れ、Cygnusというルーツ・レゲエバンドとツアーを果たしている。Crisisiがこの時にノルウェーのパンク・シーンへ与えた影響は大きいようで、Trygve Mathiesenによるノルェー・パンク写真集『Tre grep og sannheten - norsk punk 1977-1980』にもCrisisの写真が収録されているようだ。
もっぱらギグが主体のCrisisだったが、レコードを自主リリースするブームにならって、彼らにもシングルを切る機会が訪れた。78年の『No Town Hall (Southwark)』は、サザークにタウンホールを建設する土地開発への反対運動をキャンペーンする目的で作られたレコードだ。
SWPへの疑念とバンドの解散
マーガレット・サッチャー政権が始まった79年5月。新自由主義へと加速していく予兆(そしてそれは実現した)が見えてくる中で、RARに代表されるリベラル派の政治運動は減速していた。保守党復活を実現させた右派の隆盛は左派(学生含めた運動体)の対立に油を注ぎ、連帯を警戒する個人主義の立場にリアリティを与えた。ポストパンクの性格とさえ呼べる「すべてを疑う」視線はサッチャーのような保守派はもちろん、スターリン的抑圧に傾きがちな一部の左派運動にも向けられていた。CrisisもSWPが自分たちを駒としてしか思っていないことを薄々と勘づき始めており、「Back in USSR」という曲にはその時の心情が落とし込まれている。
ウェイクフォードがいうような内容で左派と呼ばれる運動すべてを包括できるわけもないが、確かなバックラッシュが起こりつつあった。かつてRARのような活動を支持していた一部のメディアも彼らへの不信感(運動そのものというより、道具としての音楽という状況に対する)を露にするか、さもなくば身内間に踏み絵を踏ませるような先鋭化を果たしていった。たとえばジャーナリストのイアン・ペンマンは『New Musical Express』(NME)でThe Pop Groupのようなアジテーション・バンドを皮肉った。労働党に肩入れしていたゲイリー・ブッシェルは、アナキストとして第三者の立場に居座るCRASSを目の敵にしたことでも知られている。この極端な反応はCrisisにも向けられた。ダグラス・ピアースは『Occidental Congress』のインタビューである出来事について話す。
筆者は該当する『NME』の記事を確認できていないので、以下はピアースの証言を是とした前提で話を進める。この発言が正しいのならばDeath In Juneは『NME』がきっかけで誕生したことになる。後ろから撃たれるといっても過言ではないこの状況は、Crisisが自らを左派と主張しているにもかかわらず、ギグに多くのスキンズが駆けつけたこととも無関係ではなかった(彼らはバンドのアーミー風ルックスにシンパシーを抱いていた)。70年代後半の英国でパンクをやるということは、思想、人種、性的志向(ピアースは同性愛者である)にまつわる偏見の境界線を曖昧にする行為であり、マクロな視点で見れば「White Youth」の件もありふれた光景だったのかもしれない。そして、「その時」にいた人々はそれに気付けないものなのだ。
Death In June
80年、サッチャー政権が本格的に始まるのと入れ替わるようにCrisisは解散した。メンバーは散り散りになったが、ウェイクフォードとピアースは引き続き新しいバンドを始めようとしていた。末期のCrisisにも招いていたパトリック・リーガスを呼び、いくつかの新曲を録音している最中に新たなバンドの名前が授けられる。リーガスは自分の用意してきた詩を「death and groom」(死と憂鬱)についての歌だと話したところ、ピアースが「death in june」と聞き間違えた。それはナチスがSA隊を粛清した「長いナイフの夜」を想起させ、いかに自分たちが持つ固定観念や先入観が強いかということを認識させる瞬間だった。もちろん『NME』による古傷も思い出されたことだろうし、ひょっとしたら精神的な先駆であったパリ5月革命のこともさえ喚起させるバンド名かもしれない。68年6月は当時のド・ゴール政権が継続の意向を示し、「革命の死」がささやかれ始めた月だったのだから。
Death In Juneの方針はCrisisの逆を往くものだった。つまり、直接的に訴えるのではなく、すべてを曖昧にするということだ。DIJはバンドのアイデンティティなどを一切「明言」せず、イメージだけを提示した。何も説明しないということは逆説的に「確かなものはない」と断言することだった。とりわけ三島由紀夫に傾倒していたピアースにとって、人生とは流動的で寄る辺のない地平を歩き回る旅だった。この個人主義は連帯を説く解放運動を信じられなくなったことへのソリューションだが、長い時間を経た今では一つの現実逃避にも見える。しかし、重要なのはその是非ではない。この時はそれが有効な術であったこと、それ自体に注目するべきである。
ある意味Crisis時代の楽曲、たとえば「Kanada Kommando」(アウシュヴィッツ収容者たちの荷物を管理する囚人を指した語)も同じ趣向ではあった。それでもナチスやホロコーストのイメージを注釈なしに利用することは、今よりもずっとセンシティブであり危険な試みだったのだ。しかし、Sex Pistols(「Belsen Was Gas」や「さらばベルリンの陽」はタブーとポップを結びつけた)に感化された不良たちがスワスティカのワッペンをつけたり、Throbbing Gristleが強制収容所の写真をアートワークに用いるなど、パンク以降のユース・カルチャーがこの手のイメージと戯れる前例は存在していた。当時若者であった多くのアーティスト(たとえばWhitehouseのウィリアム・ベネット)はそれを「若気の至り」などで片づけるが、時代精神としてのナチス趣味はパンクを語るうえでは避けられない。
ピストルズやTGはもちろんDIJに影響を与えた。しかし、何よりバンドのモデルとなったのはJoy Divisionだろう。ナチス将校たちの慰安所からとった名前、ヒトラー・ユーゲントを想起させる服装、バリトンなボーカルとベースが主役の楽曲、そして陰鬱な精神世界を綴った歌詞。DIJ最初のシングル「Heaven Street」(ソビボル強制収容所へと続く「天国への道」について歌った)を聴いてみれば、いかにJoy Divisonの影響があったかがわかるだろう。
DIJがJoy Divisionのフォロワーで終わらなかった理由は、当時のロンドンで確かなシーンとして存在していたオカルティズム運動に足を踏み入れていたからだ。ケイオス・マジックとしてシェアされていた異教の知識と自己変革としての魔術の実践は、ボディアートを介してゴス文化とも密接な関係にある。DIJがナチスを経由して転用した古代ゲルマンの文化(ルーン文字から北欧神話に由来する詩まで)は、地下世界のコードとして独自の引力を放ち始めていた。上でも書いたように「明言」を避けるDIJの態度が災いし、バンドは少しずつネオナチ疑惑がもたれるようになる。
80年代後半にもなるとドイツで発禁処分を受けてしまうような代物を作ってしまうDIJだが、3枚目『Nada!』の時点では自他間の齟齬に対して意識的であったことがうかがえる。このアルバムのジャケットと同時期のアーティスト写真では、メンバーは各々が背を向けたり顔を隠して映り込んでいる。これは偶像化の拒否であると同時に、人は無意識に権威を作り出してしまうことへの警告だった。後にDIJがピアースのソロ・プロジェクトとなった時、彼が仮面を被るようになったこともその一環である。
不明瞭なイメージと戯れるDIJは、それゆえに自らのバランスを保つことに苦労した。決定的な出来事はウェイクフォードが極右政党ナショナル・フロント(英国国民戦線)に入党したことだ。ピアースはこれを糾弾し、ウェイクフォードをバンドから追い出した。ウェイクフォードはこの時の決断を正当化するつもりはないとしながら、当時はこうした選択肢にリアリティがあったと振り返っている。立つ瀬がないからこそ集団に安寧を求めるのは、かつての解放運動を懐かしんでのことだったのかもしれない。
結局ウェイクフォードは半年ほどでナショナル・フロントを脱退している。理由は彼らもまたSWPのような組織であること、そして歴史のゼロ地点が大英帝国止まりであったことだ。ネオ・ペイガニズム探求者であり反物質主義にさえ到達するウェイクフォードとは意見が合わなくて当然というものである。
党内でのウェイクフォードの仕事は「用意された」文章に音楽をつけることだった。その一例がAbove the Ruinsとして出したカセットで、これはSkrewdriverのようなバンドの先駆けともいえる。このカセットはネオフォーク・フォロワーにとってはカルトアイテムとなり、ロシアのレーベルが非公式に再発するために、今日でもウェイクフォードの頭痛の種となっている。彼は再発するならば売り上げをSouthall Black Sistersのような反ファシスト団体に寄付するべきだと主張し続けている。
Sol Invictusとネオフォーク・シーンの形成
ナショナル・フロントからも離れたウェイクフォードは、ギャングの世界でドラッグを密売するなどして生き延びていた。命の危険と酒に囲まれた彼が自発的に思い立ったのか、それとも誰かに手を差し伸べられたのかはわからない。とにかく、ある時彼はアコースティックギターを手に取り、再び曲と詩を書くことに決めたのだった。ペルソナの名は古代ローマの太陽神からとったSol Invictus。デヴィット・チベットは彼の書いた曲「Fields」をCurrent 93の曲として使うことで、Solの音楽デビューを後押しした。これはイギー・ポップとデヴィット・ボウイにおける「China Girl」的な出来事に見える。また、ケイオス・マジック運動の中心にいたイアン・リードは自身のプロジェクト、Fire + Iceの作曲係としてウェイクフォードを採用するなど、Solのオカルティズム・シーンへの復帰はスムーズに完遂された。
Solの詩世界はネオ・ペイガニズムに基づく異教の知識と物質至上の近代を批判するユリウス・エヴォラ的なものだった(ファースト・アルバム『Against the Modern World』の名はエヴォラの著書から引用されている)。Current 93らと形成した秘教的サークルで共有されたこれらの知識と価値観、そしてマーダーバラッド的アウトプットは、この繋がりが60年代末をニヒリスティックに継承したことを意味する。それは逆転のサマー・オブ・ラヴだった。
SolやDIJはあくまで個人主義的アナーキズムの発露だった。偶像にならず、指導者にならず、ただ現実として存在する世界の中で自我を保つということ。近代以前のモチーフを使うことで、現在の歪みを描き出すのが彼らの音楽だった。これはネオフォークという呼称が生まれる前から取り組まれていた出来事であり、この事実は重要である。ある時から、彼らのスタイル、アコースティックな編成とヨーロッパ主義的ロマンティシズムおよびノスタルジーがネオフォークという型になった。90年代前半の時点では、これは一種のタグであり音楽の形容でしかなかった。しかし、ユーゴ紛争やEU発足によって高まる保守論調とナショナリズムの受け皿として、このヨーロッパ主義を臭わせるスタイルはある種のニューエイジ的希求をもたらした。それはソ連の崩壊とも無関係ではないだろう。新しい価値観が必要とされていたところにネオフォークは静かに染みこんでいったのである。
Tesco Organisationのようなインダストリアル・ミュージックの配給元がDIJのカタログを扱ったことも要因の一つだった。もっとも、これはDIJにとって大きな転換点が関係していた。これはまた別の機会に書くとする。
2005年に出版されたネオフォーク研修書『Looking For Europe』同梱のCDは米カルト・フォークデュオであるChanges、ニコ、スコット・ウォーカーらが祖として収録されている。ウェイクフォードやピアースのルーツが体系化されたということだ。
危機再来
SolやDIJたち秘教的サークルは自分たちの流通ネットワーク、World Serpent Distributionを設立するなど、パンク以降のDIY実践者としても大きな成果を残した。しかし、この輪も90年代末の時点から瓦解がはじまり、2000年代に入った時点でピアースはヨーロッパに見切りをつけてオーストラリアへと移住する。孤高に生きることを選んだピアースとの対照性は興味深く、ウェイクフォードは頑なに英国から離れなかった。それはナショナル・フロントに在籍していたことや、自分たちをルーツにしたネオフォーク・フォロワーたちがBrexit的現象と無関係でないことへの自責の念からきているのかもしれない。Solにネオフォークきってのリベラル派、Sieben(反Brexitにはじまり、ヨーロッパ文化という概念さえ否定している)を登用したこともそれを象徴づける行動だ。
2018年にSolは『Necropolis』をリリースする。20世紀中ごろまで実在した遺体を運ぶための鉄道路線「Necropolis」に言及することで、英国が死の都に近づきつつあることを示している。現在の英国が直面している状況をそのまま訴えた、Crisis時代に匹敵するほどに直接的かつ政治的なアルバムだ。
さらにウェイクフォードはこのアルバムをSolの最終作として、アコースティック楽器一式を売り払った。次いで彼はエレキベースを手に取り、Crisisを本格的に再始動させる。その決断は初めてパンク・バンドを始めようと思い立った時はもちろん、Solのためにアコースティックギターを手に取った時とも同じ、何度目かの運命的瞬間であることを予感させた。
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