【掌編小説】恩師の告別式で最後の授業
「昨日、恩師が亡くなった」親族とセックスをした人を除くと、私の人格と人生に最も大きな影響を与えた中学時代の恩師の訃報が、幼馴染からSNSで届いた。その瞬間、胸の中に広がったのは、COV19の影響で先延ばしにしていた訪問や同窓会が間に合わなかったという悔しさと、それ以上にどうすればいいのかわからない戸惑いだった。
社会性のない私は、通夜に出るべきか告別式に出るべきかわからずに、インターネットで常識を調べた。そこに提示された常識では、親族やそれに近い関係ならば両方。親しい関係ならば通夜に出て、仕事の関係者など、それほど親しくなければ告別式に出るものだと書いてあった。仕事関係者と言えなくはない。
妻に相談すると現在の実情はそれとは逆で、時間的にも短時間で済み、開催時刻も夜で仕事を持っている社会人が参加しやすいため、第一選択肢としては通夜に出て、特別に親しく仕事を休んででも時間を作りたい相手であれば告別式に出るのが一般的であると言われた。
さらに悩みを深めた私は、迷惑だとは考えたが恩師宅に電話をすると奥様が出た。私は2年に一度程度ご挨拶にお伺いしていたので、奥様とも顔見知りと言える間柄だ。私の今の妻はもちろんのこと、前の妻も、前の前の妻も連れて行っている。
「大変不躾ではありますが、私は通夜と告別式のどちらに出るべきですか?」と相談すると、告別式に出てほしいと言われた。
告別式の前の晩に礼服を引っ張り出して、保護して家族となった白い長毛種の猫の影響で、もはや黒とは言えない礼服をコロコロでちゃんと黒くいた。念のためスリーピースの上下を着て、サイズや猫爪によるほつれ等の問題がない事を鏡で確認して、妻にも見てもらった。 当然、朝出かける前にも白の浸食が始まっているので、再度コロコロで黒を邪魔する白を排除する。そして車の椅子にも白がはびこっているので、コロコロは車にも乗せた。
当日セレモニーホールに到着して、再度コロコロで白毛を取り除いていた時に気付いた。私全体を黒い縦長の物体と見たときに、上部の黒いジャケットと下部の黒いプレーントゥの革靴をつなぐズボンの色が、私には黒に近い紺色に見える
この恐怖が私の思い込みである事を祈りつつ、同じ車に乗ってきた妻と親友の目を借りるために問いかけた。
「ねえ、僕のズボンはもしかして紺色?」
二人は私のジャケットとズボンを交互に見て、うなずいた妻が言った。
「紺色だけど、まあ中に入ればうす暗いから黒に見えるよ。昨夜も今朝も黒に見えたし」
私は頭の中が、自分の紺色ズボンの事でいっぱいになった。確証バイアス。同じハンガーにセットされていたから黒に見えた。いや、そもそもズボンなど見ずに、白い猫の毛しか見ていなかった。
自分の感情の全てをお世話になった恩師とその奥様に向けるべきであるにもかかわらず、私の感情の3割は自分のズボンが紺色であることから剝がせなくなっている。
お線香をあげて告別式の時間まで過ごす待合室には、連絡をくれた幼馴染も到着し、私たちは頂いたお茶を飲みながら、恩師の遺影を見て思い出話を始めた。
先生は事あるごとに「話を見ろ」と言っていた。理科の教師らしくもない非論理的な言葉ではあったが、自分が大人になればなる程にこの言葉の意味は自分の心にしみる。
また、私が個人的にずっと言われてきたのは「詰めが甘い」という言葉。お前は素晴らしい人間性と頭脳を持っているけれど、最後までやりきらないのはダメだ。最後までやり切ってこそ、そこまでの経過に意義が生まれる。お前は半分どころか9割9分まで素晴らしい。
だが9割9分まで行くと、終わった気持ちになってしまうところがある。大人になれば最後まで詰めなければ意味がない事がどんどん多くなる。だから自分の詰めの甘さを常に意識しておくようにと言われていた。
ここまでの話を聞いて、先生からの教えは受けていない私の妻が言った。
「あなたは今日ここに、先生から詰めの甘さが直っていない事を指摘されに来たのかもね」
この一言で私の中でゲームチェンジが起こり、堂々とした態度で紺色のズボンでお焼香をしながら心の中で言った。
「さんざんお世話になりました。先生が最後に指摘してくれたこれは、今後着実に修正していこうと思います」
出棺前に私と並んだ幼馴染。彼女はプロのダンサーだ。彼女が私の耳元で言った。
「今日のお坊さん、木魚を裏打ちしていたよね?」
私はリズム感は無いが、やたらとノリが良い読経であるとは感じていた。
「ああ、裏拍子のポク、ポク、ポク、ポクではなく、裏拍子のンポク、ンポク、ンポク、ンポクだったんだね」
幼馴染が言った。
「心を安心安定させるはずの読経で、裏打ってくるから心がザワついたよ」
さすがプロの耳は違うと感じた。
出棺の時にお棺を隣同士で持った親友に私が言った。
「幼馴染が木魚を裏打ちしてたって言っていたんだけれど、お坊さんはリズム感が無さ過ぎて半周回って裏打ちになったのか?リズム感が良くてわざと裏打ちしてたのか?どっちだろうね?」
学生時代なかなかの腕前のギタリストだったリズム感の良い親友は、お棺を持ったまま噴き出した。
私は小さい声でお棺に語り掛けた。
「裏拍子は先生の希望?」
私には懐かしい先生の声で「当たり前だろ」と聞こえた気がした。してやったりという悪戯っぽい声だった。
「裏拍子の事は先生の希望だったらしいと伝えておくね。これで10割完了」
私も悪戯っぽく報告した。