映画「ルックバック」を観てきた①
学校も行かず、引きこもり、
絵ばっかり描いている小学生がいる。
仕事もしないで、
noteばかり書いている大人がいる。
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友達もたくさんいて、
勉強も運動も出来て、
面白いアイデアがたくさんあって、
面白いマンガを描ける小学生がいる。
仕事が出来て、
家庭も円満で、
noteもビジネスに上手く活用し、
社会を共に好くしていこうと、
裏舞台、表舞台問わずに
活躍できる人がいる。
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昨日、映画「ルックバック」を見てきた。
序盤から、涙せずにはいられず、
終盤まで
「描かずにはいられない想い」
性(さが)とか業(ごう)を
感じれずにはいられなかった。
そして、ついつい、
自分の性と業に照らし合わせてしまうのだった。
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他に何も出来ない、
コンプレックスばかりだったから、
縋り付くように、
絵を描いた。詩を描いた。音を鳴らした。
ひたすら走った。
もし、友達をもう少し上手く作れていたら、
もし、もう少し勉強ができたら、
もし、もう少し家が裕福だったら、
もし、面白いことが言えたなら・・・。
もっと充実した青春を過ごせたかもしれない。
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もし、もう少し不幸だったなら、
もし、もう少し一つのことにのめり込めたなら、
もし、もう少しドラマティックな人生だったら、
もし、もう少し勇気があったなら・・・
もっと極めた才能を
開花できたかもしれない。
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僕は、
どちらも知っている。
他に何も持っていないから、
音楽を続けてこれたのかもしれない。
そもそも、
頭も悪く、面白いアイデアも浮かばず、
コミュ障で、
肝心のすがりついた「絵」とか「音楽」でさえ、
じつは大した能力があるわけじゃない。
でも、もしかしたら、
「不幸」やら、追い詰められるような現実や、
夢中になれる力や、ハングリー精神が
足りなかっただけなのかもしれない。
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たられば・・・と言いながら、
今、たどり着いた現実を見つめる。
今も、その「運命」の過程を過ごしている。
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僕の「才能」は
開花したのだろうか?
何を以って「開花」と言えるのだろうか?
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「独りぼっち」だったから
「音楽」を拠り所に出来た。
「独りぼっち」を嘆く詩を歌っていたら
「独りぼっち」を持続させる現実が長引いた。
いや、「独りぼっち」を世の中に共鳴させる
表現力、実力、才能が
なかっただけかもしれない。
「独りぼっち」の詩は
本当に開花したのかしなかったのか、
あれだけ求めていた
人生のパートナーと
気がつけば出逢い、
子どもを二人授かり、
大分の田舎で、
田んぼ、畑、家の修理、子育て、
地域行事への参与。
そして、隙間を見つけては、
note書いたり、
ツイキャスでライブ配信をして、
視聴者0〜2人くらいの現状を糧に
暮らしている。
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「他に取り柄がない」と言って、
大きな評価も得られない「音楽表現」に
長い期間、しがみついていられたが、
リア充を手に入れて、
リア飢を失った。
(↑リア飢を失った時のnote)
いろいろ、やらなきゃいけないことが増えて、
不器用ながらも頑張って、
そこそここなせるようになって、
温和な人柄が受け入れられるようになって、
渇望のエネルギーを表出させる場を失って、
「出来る」「出来ない」
「使える」「使えない」ではない、
居るだけでOKな社会に属せるご縁をいただき、
「何も出来ない」幼子を育てる、
子から見たら「完璧な世界」の大人への
信頼を背負い・・・
取り柄とか、才能とか、
どうでもよくなって、
しがみついていた
「音楽」とか「絵」への
才能とかいう価値が失われて、
それでも「それ」を続けていたい想い。
そこに「価値」があるわけではなくても、
せっかく経験し、共に生きてきた相棒だ。
それらの手段を通じて
表現せずにはいられない「想い」。
それを
人それぞれの背負った「業」を用い、
荷物を下ろすかのように
表現する。
「命」を用いて表現する。
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「ルックバック」を見て、
色々湧き上がった想いを綴りました。
「ネタバレ」などという、
作品の内容なんてどうでもいい。
この作品を見て、
己の人生を見つめずにはいられない。
僕以外の他人の
何に響くのかは全くわからない。
自分が「何をする人」なのか。
何をせずにはいられない人なのか。
そうでない生き方をしている人は
どんな、僕みたいな「自分自身の窓」から
世界を眺めているのか。
どんな可能性があったのか。
運命には逆らえないのか。
どう生きることが「幸せ」なのか。
僕個人の「人生バラし」になりました。
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⚫︎僕の今後のライブ予定
週に2回、不定期で
心地好い場所を見つけては
ツイキャスLIVEでウクレレを弾いています。