豊かで幸せになれる在り方
コロナ禍があり、
コロナ禍が去った。
当時、
何となく思っていたこと。
誰にも話さず、綴らずにいたので
忘れないうちに
書いておこうと思う。
これは忘れて消えるものではなく、
「今」の下地となり、
埋もれ、影響を与え続けているように
感じるから。
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自粛要請がかかり、
社会、街全体が、
人との接触を避けるようになった。
「店舗」という存在が、
ただの商品の受け渡し場所になっていた。
飲食店は
店頭に立ち、マスクをして
テイクアウトの弁当を並べ、
・・・売っていた。
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10年前から予測はしていたが、
こんな感じで「街」が終焉を迎えるとは
驚きだった。
同情と投資の気持ちで
お弁当を買う。
車で食べて、
馴染みの地元の温泉に行けば、
閑散とした営業状態の最中、
「来てくれただけでありがとう」
という感じで、
タダで温泉に入れてくれた。
その時、
すでにこういった
値切ったり、心意気でサービスしてくれたりする
社会の在り方が消えていることを
思い出していた。
雇われ、アルバイトの
何を決断する権利もない従業員に
お金を受け渡す。
値切れるはずもない。
本当に、
自動支払い機で充分だ。
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弁当を買い、温泉に入れてもらい、
僕は、
お金を払う、受け取る。
安い、高い、
などどうでもよくて、
今の「街」の在り方、
そこで暮らす僕らの
心地好く暮らしていた営みが
消えないでほしい。
そんな願いで
お金を払い、
サービスに感謝しているんだ。
と氣がついた。
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僕はすでに
「音楽活動を仕事にする」
という目標は
コロナ云々に関係なく
すでに陰りを見せていた。
コロナ禍の折、
「今までうまくやれてた人が
そのやり方では暮らせなくなる。
という現実はツライだろうな・・」
そんな、
知っている僕自身の痛みを介して
街の活気で生きる人々に
想いを馳せた。
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そして、
何を「うまくやれていること」
とするのかを
あらためて考えることとなった。
「お金」ではない。
ただ、今ある僕らの営みが
存続してほしい。
それが願いである。
その「営み」が
貨幣経済が基礎となって
成り立っている現実。
という幻想を
実感した。
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行けばそこにいる友人。
馴染みのお店。
それが存続しうるのは
お金がしっかり巡ればこそ。
お金が入らなければ、
社会からその存在を消さなければならない。
お金を使って、
そこで買い物をしなければ
そのお店はお金が入らなくなる。
入らなくなると
その存在を消さなければならない。
そこにお金を使わない
ということは
自分にとって
それは必要のないことと
みなされる。
じっさいそういうことでもある。
が、
そんなにどこにもそこにも
お金を使うってのは
けっこうしんどいことである。
そもそも、
僕にお金が入ってこないのだから
僕は社会から
必要のない存在・・・。
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でも、いる。
僕らは相変わらず
この世界で生きている。
お金が廻ろうが、
廻るまいが、
ここで生きている。
今も生きている。
お金なんてどうでもいい。
使えねーもんに
頼ってても仕方がない。
できることをしよう。
今まで、
お金を付随させていた
「大切なこと」は
お金の付随がなかったら
「大切なこと」ではなくなるのですか?
そんな「大切なこと」は
とっとと失くして正解だ。
残ったものが今、ここに在る。
「大切なもの」を
存続させることのできない
「お金の在り方」なんて
要らない。
お金にまだ力を持たせたいんなら、
僕らに
豊かで幸せになれる在り方を示してくれよ。
豊かで幸せな在り方を
今生きる、この世の中で
僕らは示していかなければならない。
そこから、
ここから世界は始まってるんだ。