路上での出会い
1人目の子どもが生まれた頃だから
7年くらい前だろうか…
2017年?、そんくらい。
関東の街で生まれ、育ち、
暮らしてきた僕は、
唯一、誇れるわけじゃないけど、
間違いなく、ずっとやってきたことは
身近な駅前で、
路上演奏することだった。
ライフステージの変化と共に、
大分の田舎で暮らすことになった僕は、
街の猥雑さに紛れたいという
ノスタルジックな想いと共に、
数ヶ月に1回とか、
1ヶ月に1回とか、
一番近くの大きな街、
博多の天神の路上へ、
タイコを叩いて歌うために
片道3時間かけて通っていた。
その時の忘れられない出来事を
ずっと綴りたかったので
書くことにします。
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街はこの近年、
コロナ禍以後より
もっと雑然とノイズで溢れていた。
若者向けの商業施設「天神コア」は
まだ崩されていなかった。
僕は天神コアを背に、
PARCOに向かって歌っていた。
(この映像は2022年に通りがかった友人が撮影してくれたもの)
もちろん、不思議なことに、
こんなに大きな声で歌っているのに
誰も僕に気が付かないんだな。
まぁ、聴く耳持ってないってことだ。
すぐ近くに、
ネットカフェの看板を持って立っている
いわゆるサンドイッチマンの
バイトの男性がいた。
まぁ、彼は仕事なので、
そこを動けない。
何もできない。
何にもしないという仕事なんだな。
そんな彼が、
ひとしきり歌った僕に
話しかけてきた。
「いいですね」って。
詩もしっかり聴こえていたみたいで、
聴いていてくれたみたいで、
共感と共に、
話しかけずにはいられなかった感じが
とても嬉しい。
いくつかの素性を聞いたところによると、
彼は鹿児島出身、
マンガ家、もしくはマンガ家志望。
一応、田舎から都会へ
上京してきた感じみたいだ。
そのマンガというのが、
ロリコンマンガらしい。
アウトサイダーだね。
変態だね。変わり者で、
世間に受け入れられるタイプではないね。
そんな彼が
共感して喜んでくれた。
変態に好かれても迷惑だよ!
というのは冗談で、
僕にはその
譲れない欲望、夢、
そして難しいであろう現実に
居る彼に
とてもとても
親近感を覚えた。
そして、
どっちから書こうかな…
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「あの曲が好かったです。
ウザい、有罪、存在!って
歌詞が好かった」
って、
本当は
「無罪、有罪、存在」
なんだけどな…
でも、
僕は路上で、
バカみたいに
独りで「壁」だったり「理想」だったりを
建てて歌っているときの
「無罪、有罪、存在!」
の一言は、
本当にバッチリな言葉だと思っている。
これを歌いながら
警察に連行されていったら
まさに理想的だ。
だから、
そんな、
自らに当りさわりが出てしまう詩と
存在をわざわざ創り出すなんて、
自分をバカな存在だと思っている。
「夢を叶えよう〜♪」とか
歌っていればいいものを…。
こんな詩が
心に刺さってくれた人が、
ロリコンマンガで
何らかの夢を叶えようとしている
サンドイッチマンの男だけ、
なんて、
なんて有り難い出逢いなのだろう!
「ウザい、有罪、存在!」などと
聴き間違えるなんて、
彼にはそう聞こえた
鬱屈した現実が垣間見える。
僕には
「アリガトウ アリガトウ」などと言って
手を取り合って歌っている
やたらイイコで感謝している集団はウザい。
本当に、
「じゃぁ、バイト終わったら
一緒に飲みましょうよ!」
とでも言って、
意気投合したかったけど、
僕には帰る家が、
この頃には出来ていたんだ。
「大分の山奥の家に帰らないと」と。
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「え?彼女、っていうか、
奥さんと子どももいるんですか?
なんだもう!
リア充じゃないですかぁ(笑)」
と言われ、
その時、初めて「リア充」という言葉を
聞いた。
当時の僕は、
そう言われたことで、
意味がわかったので、
一応、それ以前に「リア充」
という言葉を覚えてはいたんだと
思う。
ただ、あとあと、じわじわと
この言葉が沁みてきた。
そうか、僕はもう「リア充」なんだ…
飢えていないんだ。
ちょっと寂しかった。
でも、
こんな「うまくいっていない人達」との
人間関係が
また増えていくような、
僕はもう、その界隈の
ゾーンの人生ではなくなったんだな…
それはある意味、
ホッとしたような、
でも、何かを
失ってしまった感じもした。
いろいろ、
たしかに、
僕はそんな人達と
共にした青春だった。
ワイドショーを騒がす事件を起こし、
散々騒がれた挙げ句に
死刑となり、
人知れず執行されて消えていった人もいる。
自ら命を絶った人も、
病みと共に闇へ消えていった人も…。
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そのゾーンは世界で解決され
無くなったのかな?
いや、そんなはずはないんだけど、
僕はもう、そこを出てしまったんだな。
「リア充」である今に、
幸せを感じる。
そして、
リアルに充実を感じず、
「リア飢」だった日々、
今も在るであろう
そのゾーンで生きる人達へ、
やっぱり多少とも、
リーチしたい気持ちもある。
僕がリア飢になりたいわけではない。
でも、支援者になって
困っている人の需要を探して、
支援活動のポジションを
手に入れたいわけじゃない。
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今、彼はどうしているんだろう?
コロナ禍を経て、
ネットカフェはどうなったんだろう?
僕もツアーやら、頻繁に旅していた時は、
ネットカフェをよく使わせてもらった。
今、かつて僕がいた世界は
どうなっているんだろう?
冷たい、理不尽な「街」という世界に
頼りたいとは思わない。
でもまた、別の人がそこに
流れ込んで来ているのだろう。
じわりじわりと
この田舎にも
マネー第一主義の魔の手は
忍び寄ってきている。
というか、侵されている。
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あの頃よりもっと
「街」に隙間は無くなり、
綺麗に整えられてきているんだけど、
なかなか、無料で
どこかの道端で
腰をおろし、発泡酒を飲む。
なんて行為がしにくくなってきている
ような感じがするのは
年齢のせいなのか、
時代のせいなのか・・・。
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2000年、90年代末期、
「ナンパ行こうぜ!」
とか言って、
友達連れ立って街へ行く。
元気な若者の文化があった。
さらに前の時代は
「書を捨てて町へ出よ」
なんて本もあったみたいだね。
僕はそんな若者をウザい
と思いながら、
大道芸をしているくせに
内向的な詩を歌い、
叫び、山一證券のシャッターに
背中をガンガンぶつけながら
吐きながら歌ってた。
そして、
そんな軟派なナンパは
マチヘデナクテモ
マッチングアプリで、
済ませることができるようになった。
(たぶん・・・知らんけど)
街は、女の子へ声をかける
「仕事」の人しかいなくなった。
そんな「プロ」の人たちも、
マスクの時代を経て、
ずいぶんと景気悪そうに見える。
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時代のリア充は
今、どこに在るのだろうか?
僕のリアルの充実は
僕の人生で何とかしましょう。
でも、
渇望のエネルギーに
たまに焦がれる時がある。
充実への虚無感。
渇望と共に湧くチカラ。
最後にこの詩を歌って
このnoteを締めたいと思います。
(今からここで歌って、録音して、
youtubeにupしてリンクします)