居場所
先日、
日中韓と繋がる仲間との
zoomでのコミュニケーションがあり、
僕の韓国語の先生が
半生を紹介しつつ、
現在の活動を紹介してくれた。
彼は現在、
韓国の「ひきこもり」の
支援活動に関わりながら
12年・・・だっけな?
韓国に滞在している日本人です。
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彼の紹介とか、批判がしたいわけではなく、
ちょっと自分自身、思ったことを、
noteにまとめてみようと思って、
今、筆を取っています。
「ひきこもりとは、
社会に居場所のない状態」
僕ら日本人の認識として
間違っていないですよね。
そこで、僕はこの定義を見て、
「僕もひきこもりになろうとしているのでは
ないだろうか?」
と思ったのです。
現実としては
家庭もあり、妻も子どももいて、
地域社会などの社会活動にも
比較的参加して、
幸せな顔をして、
幸せにもなっています。
社会の問題を感じては
エネルギーが湧いて
微々たる行動も
起こしたりします。
仕事・・・に関しては
日々グダグダ書いてますが、
賃金労働や、音楽活動に拠る収入は
一般日本常識としては
滅びの道を歩んでいます。
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そんな僕は
「社会に居場所のない人」と
感じる。
居る場所はあるんだよ。
決して孤立なんかしていない。
「本当の自分で居られる場所?」
と言われると、
「本当の自分」という
定義を考えなきゃな。
と日々想う。
「居場所」という日本語の共有概念が
韓国語でも中国語でも
なかなかひと言の単語で存在していないらしい。
僕も日本語として
とても漠然としていると思う。
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そんな「居場所」を
提供したり、創ったりする活動で
救われる人がいるなら
僕はその支援対象からは
もちろん外れる。
自己肯定感を低く持つように育てられ、
社会観念に抑圧され、
社会への帰属欲求、承認欲求を
満たしてあげれば、
次の欲求の段階へ進む。
マズローの欲求5段階説で言えば
社会的欲求(帰属欲求)を満たし、
承認欲求を満たしてあげる場所。
それならば
支援でなんとかなるかもしれない。
「君は〇〇が上手に出来るね。
それ、ちょうど必要としている人がいるから
それを仕事にしてみればいいよ」
と褒め、
社会での居場所を提供する。
「俺、誰かに美味しいもの作って
喜んでくれる顔見るのが好きなんだよね」
そんな本音を、
親や、社会がすんなりと認めてくれたら
社会への帰属先も決まり、
喜んで食べに来てくれるお客さんが増えたら
承認欲求も満たされ、
そんな喜びの顔を毎日拝んでいたいのだったら
自己実現欲求も満たされる。
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でも、
それが本当に「本音」なのか?問題が
発生する。
安心安全を担保してくれる帰属先を
得るために
より安全と思われる帰属先を選択する。
信用を得るために
帰属先を創出する。
そして、
社会から承認される。
認知される。
それは
有名な大学、企業でもいいし、
・・・「ひきこもり」
という名前をゲットするだけでも
承認欲求を満たすことにつながる。
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「本音」を「安全」と言われる社会を
帰属先に合わせても、
その帰属社会も、今は不安定だ。
こんな僕らの社会なんだから!
そして、
承認されるために
あらゆる努力をしても、
もしくは努力しきることが出来なくても、
承認されるに至らないことが
多々ある。
そしてそんなしんどい
不確かな社会である「僕ら」は
「そのままでいいよ」
という社会を提供しようとする。
それが「今」なんじゃないかな?
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そして、
そうすれば「ひきこもり」という
苦痛的な問題は
解決してゆくのだろうか?
と考えると、
僕自身が
挫折や絶望を受け止め、
「そのままでいい」
と、本音を実行して、
本音の自己実現を目指す
となると、
ひきこもり的現象の暮らしになった方が
清々しく感じたりする。
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「自己実現」・・・
望んだ生き方をしたいと思う。
社会が提供する
公式な帰属先に
僕の望む帰属先はなかった。
ならば、
自分のやり方で、
社会に承認される帰属先を
創出しようと頑張った。
新しい「名札」を
いろいろ考え、
承認してもらえるよう
プレゼンを頑張った。
ウクレレを教える「先生」という名札で
承認してもらえそうなタイミング(2019年)で
社会がこんなにも
簡単に抑え込まれる現実を見た。(2020年以降)
価値観を
誰かの都合で大きく変えることのできる
プロパガンダの「手」を見た。
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本当の僕の居場所を
考えるようになった。
人生の切り拓き方を
考えるようになった。
本当の「本音」を
考えるようになった。
自分に相応しい
「帰属先」を
考えるようになった。
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まず、
望んだ「自己」を実現させて、
それから「帰属先」を
探すことは出来ないだろうか?
「望んだ自己」とは
唄い、詩のとおりに存在している
「自分」のことだ。
「歌う自分」の社会的ポジションではなく、
「詩」で現れた自分のこと。
望んだ「自己」を実現させて
それを「承認」してくれる社会に帰す。
望んだ「自己」を
実現させた状態で
社会を眺める。
承認してくれる人達を眺め、
抑圧してくる人達を眺める。
どこへ帰るか。
どこへ行くべきかは
明白である。
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ただ、
その「望んだ自己」というものが
どれだけ「本当の自分」であるかは
少し距離をおいた方がいい。
「望んだ自己」は
あくまで「自己」であり、
エゴで、自我で、
一つの選んだアイデンティティ
というだけなのである。
ということ。
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僕自身が
何か引きこもりの彼らとか、
自分自身に
出来る「支援活動」を考える。
僕自身の帰属先を見つけるためにも。
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社会に規定された帰属先にも
プロパガンダ由来の「承認」からも
影響を受けない
「望んだ自己」というものは
どんなものなのか。
「社会」に属しながら、
それを見つけるのは
至難の業である。
「無所属」だって、
どこかへの「所属」の対義語なのだから
陰陽ひとまとめである。
だったら
今、居る場所で触れた自己で
確かめるしかないじゃないか!
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僕が想うに、
「踊ること」と「唄うこと」が
足りていないような氣がする。
あーだこーだ考えて、
帰属先を考えて。
議論して、企画練って、
デザインして。
「議論して、企画練って、
デザインして」
こればかりが重宝され、
「成功」の秘訣になっている
現代の気配が気に入らない。
そんな帰属先が優勢と感じるが故に
唄うこと、踊ることを抑え、
企画、デザイン、理路整然とした言語化に
労力を費やす昨今に
僕自身を通しての
「問題」の現状を感じる。
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「ありのまま」でいると
ひきこもりになってしまう。
何かの「主張」を始めると、
社会的関わりが生まれる。
それが良いことなのか
悪いことなのかは
わからない。
ただ、
その「主張」を発する前に
その「主張」を生み出した
自己を見てみると
面白いんじゃないかな?
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「社会」が
本当に自分が思った通りの現状なのか
どうかはわからない。
でも、
「社会」が「自分」を通して
そう認識させたんなら
「そんな社会」に
今、僕は居る。
と信じても
間違いではないだろう。
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「帰属先」が
見つかるといいな。
今、帰属している社会は
どうも居心地が悪い。
「敵」の陣地へ行ってみようか?
それとも「此処」を変えていこうか?
「望んだ自己」で在れるならば
どんな敵とも戦うエネルギー。
「望んだ自己」で在れるならば
裏切りだって厭わない。
でも、
そのアイデンティティを
抱きしめて、消えたとき、
それを包み込む人は誰なのか?
僕は誰なのか?
君は誰なのか?
背後に感じる
慈しみの微笑みと憂いを
「自分自身」と感じて生きても
かまわないだろうか?
あれこれ考えても
仕方がない。
肉体のある僕は
とりあえず今日も
唄い、踊ろう。