やったように成り、やらなかったように成る
雨の1日が過ぎて、
朝、洗濯しながら
家周辺の草を刈り、
自分の田んぼ周辺の草を刈り、
午後は、友人の田んぼの
人力代搔き作業を手伝いに行き・・・
夕方、保育園に子どもを迎えた後、
奥さんに任せ、
街へ行く。
駅前の路上で歌うためだ。
30代前半まで、
何とかミュージシャンとして
活躍したいと思っていた。
40代前半まで、
何とか音楽を活用して
生活したいと思っていた。
40代も後半にさしかかり、
音楽が出来ること、
何よりも大切に出来る
という意志が有ることが
有り難くなってきた。
おそらく、
もう少し年齢が下ると、
「健康のため」
元気に生きるために
音楽し続ける意志となる予測が
立つ。
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「音楽」と言っても、
人によってそれぞれだ。
僕にとっても、
いろいろある。
誰かと一緒に音を鳴らす。
コミュニケーションが活力となる
場合もある。
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「場」「空間の揺れ」を感じ取り
スピリチュアルに必要な音を鳴らす。
「即興音楽家」「舞踏」のような
側面を好む重要性もある。
「なにもしない」から始まり、
それでも「在る」もの。
在らしめたい意志、
自我、自己や他者の存在を感じる。
これはコロナ禍、
「言葉は誰かへ届ける気持ちが無ければ
必要ないじゃないか」
と思い、
同時に、親の介護で多忙となり、
曲や詩を熟成させて発する余裕がなくなり、
独り、自由になれる夏の早朝、
廃校を巡ったりして、
即興でウクレレを
インストゥルメンタルで弾いた
「ウクレレスケッチ」
とタイトルをつけて
youtubeのプレイリストにあげた。
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そして「詩」。
歌うことの意義。
これが今の僕の
「大切な音楽」の定義になっている。
長年、「詩」、曲を創ってきた。
「ヒット」どころか、
誰にも聴かせていない曲もある。
「場」が必要としていない曲も多々ある。
僕は、それらの曲、「言葉」を
この身体を通して
奏で、響かせた時、
初めて生まれ、生きるものだと
感じている。
だったら独りで歌っていればいいじゃん。
でも、
やっぱり「言葉」は
誰かに届ける意志がなければ
発する必要のないものだな。
と、つくづく思う。
でも、
だからといって、
「場」や「ニーズ」にばかり合わせていたら・・・
本当に彼らが喜んでくれるなら、
それを僕が出来るなら
喜んで、
頑張ってでも、
やってやりたいものだが、
彼らが本当にそこまでの必要性を
求めているのか?
僕の人生を保証してくれるのか?
そこまで「僕」を求めているのか?
今んとこ、
幼い(幼かった)我が子以外に、
そんな存在を感じたことがない。
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でも、でも(「でも」が帰ってきました)
誰かに伝える気持ちで
言葉を発していたい。
それは現実創造のチカラなんだ。
「自分」から
自分が必要な言葉を発する。
「自分」以外の誰か
「彼(か)の身」=神へ届ける。
発した僕が「詩」を現実化させ、
どこかに響き合える誰かが現れてくれて
小さくとも、
社会的な共有になる。
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路上へ行って歌った。
先週は、夕方にツイキャスライブして、
21時をまわった頃、
駅前に行った。
駅前は、ほとんど誰もいなかったので、
パターンを逆にしてみた。
19時半頃、
路上に着き、歌った。
可愛らしい女子高生たちに
一瞬囲まれ、
彼女たちにはしゃがれた。
僕はちょうど、
フィッシュマンズの「頼りない天使」を
歌っていた。
「未来は ねぇ 明るいって♪」
心を込めて歌ったら
泣きそうになった。
無邪気な彼女たちの「群れ」に
どのくらい響いたかは未知数。
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スケボーで夜の街を滑走する
男子3人も
懐いてくれた。
スキマスイッチ、レミオロメン、スピッツ、
長渕剛など、
リクエストされたけど、
試しに弾いてみて
「お〜出来たね」とか言って
お茶を濁した。
「お〜もうこんな時間。
行かなきゃ」
と言って、
ツイキャスのライブ配信に行った。
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場所は街灯のある
人気のない公園。
目星をつけていたその場所へ行って、
ライブ配信をした。
数人の方が
聴いてくれた。
FBライブ配信とは違って、
知らない方ばかりだ。
よく考えてみれば、
いつだって、
路上だって、
会場でするライブだって、
一桁のお客さんばかりを相手にしてきた。
たま〜に大きな会場で、
多くの人に届けられるとしても、
逆にそこで出逢える繋がりは
ゼロだったり、
あったり、なかったり。
しかも、
企画に合わせた選曲なので、
・・・なんだろ?
あの空洞感。
空虚感を持ち帰ることも多い。
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結局、言いたかったのは、
今は、ツイキャスでのライブ配信を
チカラ注いでやっていこうかな?
なんて思うほど
楽しかったってこと。
路上で、イベントで、
僕のサイケデリックな「語り」をしても
なかなか聴きにくいでしょ?
「人の足の裏みたいなカタチをした
木が一本、丘の上に生えていた」
なんて、意味不明な詩を、
ざわざわした空間で
誰が聴いてくれるのかね(笑)
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今日も土曜日。
この山間の田舎町では
そこここで「蛍まつり」「蛍コンサート」が
行われる。
自分が出演するイメージは
あまりない。いや、
来年、僕、何かやる。という話も
来ているのですが、
また今とは違う「僕」を
創らなきゃな(笑)
「蛍は独りで見るべきです」
とかブログで言ってますが・・・ね(笑)
今日は家族でのんびり
イベント覗いてみるかな。
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ツイキャスライブ、
「週に1回、出来れば2回」
とか言っていたけど、
今日から
「週に2回、できれば3回」
と、言おうと思います。
昼間だったり、夜だったり、
定期開催して、ちゃんとファンを確保
したいところだけど、
まだ、時間、曜日は不定期です。
でも、よかったら
アーカイブも残しておくので
観て、聴いて、
いつかは生音のLiveで、
僕も旅したいので、
お会いできたら。
それが未来を想う、
今の活力となっています♪
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「適正」とか、「適材」とか、
「向き不向き」とか。
どういう方法でやれば
「うまくいく」とか、
どんなやり方か向いている。とか、
そんな適正診断系を紐解くセミナーのお誘いを、
田んぼでの雑談では
「楽しそう」って思ったんだけど、
夜中の帰り道、
「やっぱいいや」って思った。
僕、やろうとしてることは決まっているから。
やるか、やらないか、だから。
音楽にしても、外国語にしても、様々な経験にしても。
代わりに、
最近いつも浮かび上がる
ブルーハーツの歌詞を呟いてみる。
「あきらめきれぬことがあるなら
あきらめきれぬとあきらめる」
やるか、やらないか。だよね?
現実を見てみると
やったくらいの現実がそこに在って、
やらなかったくらいの現実が
ここに在る。
やれなかったことは
誰かがやってくれている。
僕がもし、
あなたが欲しいものを持っているんなら、
それ、使ってください。
それはあなたが「僕」に映した
「自分自身」だから。
使えるよ♪