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将来「何」になる?という「何」って何?
息子が10歳になり、
同級生との差がつきはじめてるな。
なんて意識を
意識してしまった。
なんか、どっかで、
「習い事を始めて
何かを身に着け始めるのは
10歳頃から」
なんて標語を思い出した。
日々、成長する子ども達。
出来なかった「挨拶」が
出来るようになって、
気持ちの切り替えも出来るようになって、
自分なりにモノゴトを
考えるようになってきている。
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学校、というか教育方針で、
読書が勧められている。
本をたくさん読む子は
偉い子だ、と。
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先日、
学校で行う持久走大会を
応援しに行った。
サッカークラブに入っている子は
日常的に走っているだけあって、
みんな足が速い。
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僕は
放課後児童クラブで
支援員として働いているのだが、
誰とも遊ばず
読書ばかりしている子は
やはり
持久走は遅かった。
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学びを讃え、
運動を讃え、
何の問題もない。
批判するわけではない。
こういう、
どっちも勧めて讃えるって
いいよね。
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ただ、
ちょっと気づいたことを
書きたくなったのです。
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僕の息子は
1年前、運動神経も良く、
友達からサッカークラブに誘われていた。
保育園から仲良しの友達も
始めていた。
でも、
息子はサッカーには
そんなに関心がなかった。
だから始めなかった。
ユーチューブと
ポケモンカードに
夢中だ。
運動神経が鈍くなった
ってわけでもない。
機嫌が良ければ、相変わらず
家では、歌ったり、踊ったり。
「鈍い」とか「素速い」とか、
こんなことを書いておきながら
僕も息子も、
大して気にしているわけではない。
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もちろん親なので、そんな世代なので、
ユーチューブやスマホゲームの
やり過ぎに懸念を示したりも
してます。
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自分が子どもだった時を思い出す。
「マンガばっかり読んでないで
勉強しなさい」
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そして、それなりに
子どもの世界に理解を示す。
そして、
今、夢中になっていることが
将来の役に立てば好い
などと考える。
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そこで僕はさらに考える。
「役に立つこと?」
大人になった僕は
僕が夢中になれることをやって、
誰かの何かの役に立てているのか?
僕は誰かの役に立つために
音楽をやっているのか?
*****
音楽をしている人は
称えられがちだ。
スポーツをしている人は
称えられがちだ。
「好きなことやれるって素敵ね」
と、称えられがちだ。
優れた結果を出せても
出せていなくても
称えられがちだ。
それはもしかしたら
ポケモンであったとしても、
その界隈に入り込めば、
称え合える仲間が
いたりするのだろう?
「意外とポケモンが
国際交流に役立ったりもする」
役に立てばいいの?
役に立たなかったらどうなの?
*******
「いつか、紅白に出られるように
がんばってね!」
当時、若者だった僕は
当時のおじさん、おばちゃんに
よく言われたものだ。
適当な愛想笑いで流してた。
そんな人は
絶対、僕の音楽を聴いたりはしない。
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サッカーが好きで、憧れて始めた子は
自分から体力づくりの必要性を感じ、
走り込んだりしている。
息子には
どうでもいい世界みたいだ。
もともとあった素質も、
磨かなければ輝かない。
でも、
輝いたとしても、
それが自分にとって
どうでもいいことだったら、
派手な装飾が
煩わしいだけだ。
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もし、
「悔しい」などと
感じたのならば、
これからがんばればいいし、
あと、
何に対して「悔しい」と感じたのかも、
たどれる術を
後々見つけていってほしい。
その「悔しさ」は
承認欲求かもしれないし、
自己実現欲求かもしれないし。
運動神経は必要なのか?
優秀な成績、評価は必要なのか?
何が、欲しいのかな?
そんな萌芽を感じながらも、
まだまだ無自覚な
少年少女達は、
まだまだ分け隔てなく
競技が終わった後は
じゃれ合っている。
僕は
今と過去と未来を
愛しく眺めている。
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