マーケット的であるか コミュニティ的であるか
こちらの、
1ヶ月前に投稿された
りなるさんのnoteが
新しく、僕の生きる
「世界の解釈」に追加されたようで、
前提説明なく用いれる
名詞、哲学、解釈に
なってくれたらいいな・・・
と思いつつ、
「マーケット的(等価交換=清算すること)であるか、
コミュニティ的(不等価交換)であるか」の
僕の想ったことを
綴りたいと思います。
こちらのnoteを読んでみてから
この前提の説明のない僕のnoteを読んでもらえたら、
少しはわかりやすいかも。
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子どもの頃、
人との付き合いを
「取り引き」するような考えで
するようなことはなかった。
「取り引き」を考えるには幼くて、
せいぜい、好きか嫌いか、損か得かを
感情的に処理した先に
友人知人との付き合いがあった。
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最初のうち、「お金」という存在の
得方は、お小遣いか、
アルバイトくらいだったでしょう。
そして、
その得たお金で、
得たい「何か」が登場する。
そうして
等価交換で、欲しいものが手に入る
「市場」の社会に足を踏み入れてゆく。
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大人になると、
どうしても、
等価交換で清算する「お金」を絡めた
関係性が絡んでくる。
そこが朗らかなのか、シビアなのか、
江戸時代、明治、大正、昭和、平成、令和・・・
マーケットの中にコミュニティが内在したり
コミュニティの中にマーケットが内在したりする。
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コミュニティ的な関係で
「バンドブーム」は成り立っていたんじゃないかと
想う。
当時、まだ、マーケットに足を踏み入れていない
中高生だった僕も、
漠然と想っていた。
ギターボーカルの人が、
作詞作曲して、目立って、色々やって、
バンドの顔になって、
ベースとドラムの人って、
サブキャラだよな・・・。
市場価値って、
やっぱりギターボーカルの人に傾くよな。
仕事の割合から考えても、
ベース、ドラムの人って、
等価交換で考えたら
きっと、そんなに稼げないだろうな・・・。
でも、市場価値だけでは語れない
人間関係が、やっぱり音楽の魅力だよね。
などと若いなりにも想いながら、
年齢を重ね、時代を眺め、今、
「バンド」というコミュニティを
マーケットの社会では
不等価になり過ぎ、コストを清算出来なくなって、
ドラマーもベーシストも、
いなくなり、
機械がその役目を賄うようになった。
「不等価」を
そのまま放置出来なくなって、
年齢を経る毎に、
バンドを辞め、音楽を辞め、
演劇を辞め、芸術を辞め。
さらに近年は、
結婚をやめ、子育てをやめ・・・。
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等価交換できることしか出来ない社会に
どんどん近づいているような氣がする。
バンド、音楽、演劇、芸術。
結婚、子育て、お付き合い。
マーケットにコミュニティを創り、
なんとか、せめて、
等価交換できるように、
お金を得て、払える手法を探し、
消去法的な選択肢を辿り
お金になるやり方を探す。
心地好く、楽に、流動的に、自由に
生きていける関係を数値化して
コミュニティをマーケットに
置き換えていく。
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なんとかその「良いこと」が
お金になるように、
「積極財政!」とか言っている
政党もいるが、
でも先ず、そこで積極財政という
対処療法をした後は、
もっと、
考えるべき、
「暮らす僕らの在り方」が
あるのではないかと
そこらへんの注目すべき政党の
声に耳を傾けながらも
想っているのです。
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それが、
「マーケット的(等価交換=清算すること)であるか、
コミュニティ的(不等価交換)であるか」
という考え方で整理すると
ちょっとスッキリした気がします。
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「友人」だと思ってた人から、
大人になると、
たまに「仕事」の話が来たりして、
マーケット的な関係になることに
戸惑ったりすることがある。
若い頃は
「大人になったな・・」
なんて、ちょっと誇らしく思ったり、
そこから、
友人を増やし、
人間関係が拡がると、
もしかしたら仕事に・・・
マーケットが拡がるかもしれない。
・・・なんてね。
そんなのに興奮してた。
人間関係が拡がると
なんとか支え合いながら
生きていけるんじゃないかと。
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でも、その「生きていく」
ということが、
マーケット的に生きていくのか、
コミュニティ的に生きていくのか、
混在して、混乱する。
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同じような仲間意識を持ったコミュニティで
イベントを立ち上げ、
マーケット的な成功を収めようとする。
販売、講演、ライブ演奏。
コミュニティ内でマーケットが開かれ、
等価交換が行われる。
コミュニティ(同族思想)が拡大すれば、
マーケットも拡大する。
そのコミュニティ内にある
「価値」の意識が拡がれば、
それをマーケットで等価交換することで、
「価値」の勢力が視覚化される。
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お金を多く受け取る者もいれば、
サービスを多く受け取る者もいる。
それが不明瞭なほど、
コミュニティ的とも言えるかもしれない。
「いいよいいよ。まけておくよ」
「大盛りサービスしとくね」
政治の裏金問題とかもその類かもね。
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コロナ禍に突入した初期、
閑散とした地元の温泉に行った時、
「来てくれただけで嬉しいよ」
といった感じで、
温泉代をタダにしてくれた時、
コミュニティ内にいる
暖かさと安心感を感じた。
社会が混乱すると、
この「社会」というコミュニティが
維持されることを多くの人が望み、
マーケットでもなんでもいいから
利用できるもんは利用して、
明るく楽しく穏やかな
コミュニケーションを
望むのかもしれない。
ただ、
その混乱を利用して、
マーケットをひっくり返し、
後の等価交換される「価値」の
持つ者と持たざる者が入れ替わる、
革命的な動きを目論む者もいる
ってことは
忘れないほうがいい。
コロナ禍を経て、
(まぁ、それ以前からだったが)
シャッターの降りた商店街が
解体され、更地になり、
新しく不動産マーケットで
等価交換された「資金を持つ者」
によって、
大きなビルが建てられ、
町は活気を取り戻す。
いや、
マーケットの活気が勢いを増し、
コミュニティは解体されていったようにも
感じる。
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想うことが多過ぎて、
まとまらなくなってきたので
この辺で散らばったまま終わらせます。
りなるさん、
新しい視点をありがとうございました。
まだまだ
スッキリとインストールされるには
時間がかかりそうです。
でもこの流動的な世の中の
流動性が少し見えて、
どこへ僕が舵を切って行きたいのか、
それに伴い、「世」はどんな変化が起こるのか、
コミュニティ的には楽しみで、
そんなコミュニティ内で、
マーケットに対する意識は
どのような変化が起こるのか。
意識の変化で現実がどう変化するのか。
期待と不安の体感が導いてくれるのを
今後とも楽しんでいこうと思います!