作ったものに愛着がわいてしまう人はエンジニアに向いていないのだろうか
どうも。人と居るときはあまりしゃべらなくても一緒にいるだけで楽しいと思えるタイプな気がして、初見さん的には微妙に思われそうだなと思う、ひらりんです!
3日前の2月28日をもちまして2か月にもわたる東京都デジタル人材育成支援事業の講座が終わりました。講座では主にJavaやLinuxを学んで、貸与されたPCの中にそのデータが残っています。この期間に渡っていじってきた彼らは愛おしい我が子のような気持ちになっていますが、貸与されている限りはPCを返さないといけません。まるで出荷する家畜を見守る牧場主の気分です。
もちろん、コピーを残しておくなど残す方法はあるのですが、実際にエンジニアとして仕事をする場合クライアントに権利があるだろうから、丸々手元に残しておくことはできませんよね。色々な現場を行き来できるSESは魅力的だと思っていたのですが、そういった意味では私に向いていないのかもしれないとも思えてきます。
実際に作ったものは手元になくとも、そのプロジェクトを経験したことやそのプロジェクトで学んできたスキルは自分に残るものだろうからと結局は割り切れるとは思うのですが、初めてまともに学んできたものという観点でいうと離れてしまう寂しさはひとしおですね。
また、結局のところこの講座ではあくまで各項目の演習ばかりで何かを実際に作るところまでは至っていないので、残したとてあまり見返すこともなさそうです。そう考えると残す必要はないし、むしろデータの無駄になるんですよね。
この捨てられない感覚って私の悪い癖です。家だって不要なもので溢れています。最近やっと数年前の新卒就活時にもらった企業説明会のパンフレットなどを大分捨てられたくらいには物を残しがちです。
いつかこういった企業に行きたくなるかもとか、営業するような立場になったときに使えるかもなどと思って残したくなりますが、そんないつかが訪れる頃はほぼ無いし、その時点で再度調べれば良いだけなのですから。
SESって会社、人、案件との出会いと別れを繰り返していく仕事で、そこは寂しい反面魅力的だとは以前から思っていたのですが、データとの出会いと別れについて思いを馳せるなんてちょっと変わっているでしょうか。
ただ、色々な仕事で似たことはあるはずなんですよね。何かの企画が終わったり、使うシステムが変わったり、仕様が変わったりとデータとお別れをするときが。
それであれば気に病むことはないし、ありがとうとPCを手放すべきなのでしょう。Corei7の良いPCよ。いままでありがとう。