純愛ラプソディ(仮) 一
全身びしょぬれでアパートの外階段を駆け上がる。ヒールは片方だけ。どこで脱げたかわからない。震えながら、鍵を取り出す。ドアノブに挿そうとして失敗。鍵を持ったまま、かじかむ手にハアーっと息をかける。
もう一度鍵を挿し、ドアノブを回転させる。開けた瞬間、土砂降りの雨はさらに勢いを増し、窓に打ちつける音がした。外から打ちつけているのに、ドアを開けたとたん、部屋の中に雨が降りそそいでいるようだった。
ドアを後ろ手で閉め、暗闇に目をこらす。「にゃー」
よかった、家にいた。ホッとしたら急に寒気がした。「ヘックシュン」「にゃー」足元に温もり。しゃがみ込んで抱き上げた。「ただいま、アカネ」
片方だけのヒールを脱ぎ、スリッパを履いてリビングへ。アカネを下ろしてシャワールームへ向かう。アカネは私の後ろから、にゃーと何度も呼びかけるように鳴く。「大丈夫よ、アカネ。シャワー浴びるだけだから」
脱衣かごの隣の棚に、ストックされた着替え一式を出す。濡れた服を洗濯機に放り込むと、スライドドアを開け、シャワーの水量を最大にした。ドアを閉め、熱いシャワーの音だけを聞きながら、考えたのはただひとつ。なぜ今なのか。なぜーー。
すべて終わったはずだった。もう会わない、奥さんのところへ帰ってと言ったのに。ホテルのバーに現れ、あいつとは別れる、おまえも望んだことだろう、そう耳元でささやいた。「どうだ、久しぶりに」下卑たいやらしい顔だった。耐えられなかった。彼にも、何年も彼にすがりついていた自分にも。
腰をさする手に身をよじる。部屋を取ったよと言われ、何かがはじけた。「いや!」手が止まった。「もういや。こんなの間違ってる」「何をいまさら」「嫌なのよ。私はただーー」ただ愛されたかった。誰よりも深く、誰よりも優しく。でも……。「難しい話はあと回し。な、いいだろう」 がく然とした。なにもわかっていない。彼を突きとばし、逃げるようにバーを出た。どこをどう帰ってきたかも覚えていない。途中でヒールが片方脱げ、びしょぬれになった。シャワーの音の間から、「にゃー」と鳴く声がする。アカネ……。
休日のたび彼を待った。最初のうちは毎週会えた。それが二ヶ月に一度、半年に一度になり、それでも待った。待たずにいられない自分がみじめで、泥酔してシャワーを浴びた。アカネが来たころにもそんなことがあった。私がシャワールームに入ると、アカネはいつも緊張する……。
大急ぎで髪と体を洗い、シャワーを止める。にゃーと鳴く声が止んだ。スライドドアを開けると、アカネはバスマットの上に鎮座して、私をじっと見ていた。「おいで」シャワールームから手を伸ばす。アカネはためらいながら、シャワールームに前足を片方入れては出し、入れては出しを繰り返す。次に入れたとき、前足をつかんで抱き上げ、シャワールームから出ると、アカネをバスマットの横におろした。それからバスローブを羽織り、バスタオルを頭に巻く。にゃ、と繰り返しながら、アカネはずっと私を見ている。にゃ、と私も言ってみたら、アカネが嬉しそうに「にゃー」と鳴いた。
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