きずな(フルバージョン)
この作品は、『バッテンガール』スピンオフ企画に応募した「きずな」のフルバージョン完結版です。この企画は一場面を書いて応募するものでしたが、作品を応募すると勘違いして完結させました。せっかくなので公開します。スピンオフ作品はこちらにまとまっています。(企画詳細もリンクあり)
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なんであの人がいるの? もう顔を見なくてすむと思ったのに。「紫藤、ラスト一本」顔を上げたら目が合った。笑ってる。ふざけるな! ーーダメ、落ち着いて。今日は全然いいところがない。せめて最後くらい。
呼吸を整え、跳躍に向かう。腰にバーの感触があり、しまったと思う瞬間、背中から倒れ込んだ。バーが上から降ってくる。「紫藤!」駆け寄るコーチに、手で大丈夫と合図した。起き上がって、あの人の姿を探す。いない。どこにもいなかった。イライラする。一本も跳べなかった自分が不甲斐ない。
着替えを終えるとコーチが待っていた。「お疲れ」「うっす」通り過ぎようとしたら、紫藤、と呼び止められた。「清塚が見に来てな、お前のこと褒めてたぞ」「はあっ?! 一本も跳べなかったのに?」「結果じゃなく跳躍だ。とても良かった。自己ベスト更新も夢じゃないとさ」あの人は何を考えているのか。「俺も同じ意見だ」「何ですか、コーチまで。どうかしてますよ」「ただ踏切の瞬間、体がぶれるんだと」「えっ?」「ほんの一瞬、何かに躊躇しているように体が動く。そう言われて見ていたんだが、たしかに清塚の言うとおりだ」「何がわかるって言うんですか、あんな人に!」言ってしまってからハッとした。「あんな人、か。そうかもしれんな」「そうですよ、一緒にオリンピックに行こうって言ったのに」涙があふれる。「……勝手にやめたんじゃないですか。なんで今さら」「なんでかは俺も知らん。だが、気になることを言っていた」コーチがじっと見てくる。な、何?「単刀直入に聞こう。お前、目が見えづらいんじゃないか」息が止まりそうだった。なぜそれを……?「清塚が伴走者をしているのは知ってるな」私はうなずく。「最近一緒に走りはじめた人が、見えなくなる前、ちょうどお前と同じように体のぶれを経験したらしい」「だからなんだって言うんですか、私も目が見えなくなるって言いたいんですか、だいたい何の権利があってそんなことーー」「落ち着け。落ち着くんだ紫藤」あの人に何がわかるというのか、いったい私の何がーー。
女子走り高跳びで日本を代表する選手。それが清塚杏奈だった。幼い頃、オリンピックで彼女の跳躍を見た私はすっかり魅せられ、走り高跳びをやろうと心に決めた。でも中高の陸上部は走りたい人が入るところで、高跳びも幅跳びもお呼びじゃなかった。陸上部の顧問はマラソンランナーで、短距離希望者ですら門前払い。なんとしてもインターハイに出たかった私は、走り高跳び希望を隠して入部した。来る日も来る日も地味な基礎訓練とランニング。おかげで体力は大幅に向上した。そして念願のインターハイには、ダメ元で走り高跳びにエントリー。なんと高校記録を更新してしまった。
けっこうな騒ぎになったはずだが、あまり覚えていない。清塚杏奈と同じところで競技を続けたい。それしか考えておらず、関係ないことはまったく見えず、耳にも入らなかった。そしてあるとき、運命の出会いが。今のコーチが訪ねてきたのだ。それも清塚杏奈と一緒に。
緊張して何をしゃべったか全然覚えていない。でも最後に清塚杏奈が私の手を取って言ったことは、絶対に忘れない。「一緒に代表権を取って、オリンピックで跳びましょう。誰よりも高く。あなたとなら、可能だと思っています。私たちを信じてください」
その言葉を信じて入ったのに、清塚杏奈は2年ほどで競技に見切りをつけ、視覚障害者マラソンの伴走者に転向した。裏切られた気持ちでいっぱいだった。「明日で最後だから、紫藤にも話がしたい」そう言われたけど、日課のランニングをわざと長引かせ、顔を合わせないようにした。みんなへの挨拶では、パラリンピックを目指すとかなんとか、適当なことを言ったそうだ。勝手に目指せばいい。それが正直な気持ちだった。もう会うこともないと、せいせいしていたのに。どうしてまた私の前に現れたのか。
しばらく休んだら落ち着いたので、コーチに伴われて寮に戻った。「遅くなってすみません」寮母さんは先に風呂に入るよう言ってくれた。「もう誰も入ってないから、ゆっくりしてね。そのあいだにご飯用意しておくから」食事の時間は過ぎていたが、コーチが連絡してくれたのだろう。ありがたかった。こんな日に空腹で眠りにつくのは辛すぎる。自室に荷物を置いて風呂に入り、温かい食事を摂りながら、コーチに知られてしまったショックをかみしめる。いつかわかることだったんだと自分に言い聞かせたが、大会は来月に迫っている。よりにもよってこのタイミングなんて。神様はずいぶんひどいことをする。
網膜色素変性症。診断は受けていないが、調べたところによるとおそらくそうだろう。遺伝性の病気だ。夜盲、視野の狭窄、視力低下がおもな症状で、治療法はない。徐々に見えなくなるので、備えていく以外にできることはない。
最初におかしいと思ったのは、インターハイを間近に控えたある夜。寝る前に部屋の電気を消したら、急に視界が真っ暗になって驚いた。そのあとしばらくは何も症状がなく、次に気づいたのは、清塚杏奈と初めて会ったときだった。はじめまして、と彼女が差し出した手を、一瞬握りそこねてしまった。ヒヤッとしたけどすぐ手を握ったし、清塚杏奈が気づいたかもしれないなんて、思ってもみなかった。
この先どうなるんだろう。考えても仕方ないのだけど、考えない日はない。ここしばらく記録が伸びないのも、病気のせいなのだろうか。病院に行くべきだと頭ではわかっていても、診断を確定させるのが怖くて行けずにいる。
自室に戻り、机の上のメモを取る。帰りぎわ、コーチに渡された清塚杏奈の連絡先だ。初めてここに来たとき彼女から受け取ったものと同じだった。一緒に練習するようになって、何度もここに連絡した。ときには弾んだ気持ちで、ときには泣きながら。
症状は徐々に進んでいるのだと思う。本当に、私はこの先、どうなってしまうのだろうか。
翌日、閉じこもっていても仕方ないので、外出することにした。寮を出たところで清塚杏奈に出くわす。「なんで……」思わず声を上げてしまう。清塚杏奈はニコニコしながら、よっ、と右手を上げてやってくる。昨日の今日で、まともに顔が見られない。「天気もいいしさ、カフェでお茶でもしよ?」そう言うと、私の腕を引っ張るように歩き出した。
「ちょっ、どこ行くんですか」「お気に入りのカフェ。先週見つけたんだ」「先週見つけてもうお気に入り?」「なんか文句ある?」「いや別に。ないっす」清塚杏奈はにい~っと笑うと、イイコイイコ、と私の頭を撫でた。「やめっ、やめてください!」叫んだ瞬間、目の前が暗くなった。いや違う。厳密に言うと、見える範囲が狭くなった感じで、昔の映画やドラマをデジタルで見ているような感覚がある。こんなに視野が狭まったのは初めてだった。ついに……。
「帰ります」清塚杏奈は驚いて私の腕を離しかけ、思い直したのか、もう一度腕をとった。「ねえ紫藤、うちに来なよ。一緒にマラソンやろう」カチンときた。人の気も知らないで!「前もそう言って、結局走り高跳びやめましたよね! また同じことするつもりですか?!」清塚杏奈は首を横に振った。「今度はしない。誓ってもいい。前のときも、自信が持てなかったの。ごめんね」今度は私のほうが驚いた。「自信が持てなかったって、どういう……?」「インターハイで高校記録を更新したでしょう。現地で見てたんだけど、かすかなぶれが気になったの。でも病気によるものかどうか判断できなかった。今は違う。今度こそ、とことんまで一緒にやりたいと思った。だから、一緒にパラリンピック目指そう。私が伴走する」
「そんな、急に言われても」「急かな? ずっと気づいていたんでしょう。網膜色素変性症。治る病気じゃないって」「そうだけど……、そうだけど、でも」「違うかもしれないと思った」力なくうなずく。「でも病院には行ってないでしょ。病気の可能性を否定も肯定もできない。もしかしてさ、引き延ばしてるうちに治療法が見つかると思った?」「わからない。そうかもしれないし違うかもしれない。本当にわからない。でも」「怖かったんだね」そうだ。すごく怖かった。「怖かったから、考えないようにしてたんだね」そう、考えたくなかった。何も考えないでいたかった。
「ね、ちょっと手を出して」私の腕を離し、カバンをごそごそと漁った。「あった」取り出したのは、輪っかになった紐のような、ロープのようなものだった。「伴走者とランナーは、このロープでつながっているの。名前があるのよ。何だかわかる?」はて。首をかしげる私に、「きずな」「きずな?」はい、と輪の片方を差し出す。私が輪をつかむと反対側を持ち、この状態で走るのよ、と清塚杏奈は言った。「きずなで結ばれているの。だからね、もう一人じゃない。一人で怖がらなくてもいいのよ」
一人じゃ、ない。その言葉はすうっと体の中に入って、すごく深いところにまで到達した。そしてすごく深いところから、温かい涙がこみ上げる。一人じゃないんだ。一人で怖がらなくてもいいんだ。「ね、また一緒にやろう」清塚杏奈の言葉に、私は何度もうなずいた。
おわり
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