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父の背中から学んだこと

noteと言うものを始めたばかりです。

自己紹介も兼ねて、平沼組の歴史
平沼広行が歩んで来た道のりを綴ってみます。

誕生日を迎えた日と言うことで

まずは、改めて、初心に戻ります。

私は、小さい頃から
父の仕事をお手伝いしていました。

お小遣いが欲しければ
まずは、働けと言われ

小学生の頃から
春休みや夏休みの時
現場へ行っていました。

小学生なので、
職人さんと一緒に作業はできません

その時、じっくりと観察して
必要な道具を、トラックから持ってくる
と言う仕事を見つけました。

そのために、道具の名前を覚えて
その人にどのタイミングで渡し
どこにその道具を置いたらいいのかを
常に意識するようにしてみた

小学生でも、できること

例えば、
汚れたら、ほうきできれいにする
ほうきと言われたら、
ちりとりも一緒に持っていく

『現場はな、工事や作業が終わった後は
始まる前よりもきれいにしなければダメだ』と
父からは、厳しく注意されました。

それらが、今も
私が仕事をする上で
役立っていて、自然に身についていること

現場作業は、土や埃や油にまみれたりして
どうしても、汚い仕事で、服も汚れます
なので、印象もあまりいいものではありません

けれど、
その作業をしている方々のプライドや内にある志は、
めちゃめちゃ高いんです!

そんな父を、尊敬し、あこがれて、今があります!

写真は、若かりしき日の父です。

母は、この写真を見て、私と間違えていました⁈
うりふたつで、そっくりです。

あの頃、父と母は、厳しい状況を
なんとか乗り越えて、私たちを育ててくれました。

今度は、私の番です。

まずは、平沼組のはじまりから

戦後、母と2人でリヤカーを引いて
ごみ拾い、廃品の回収から
まずは、始めたと聞いています

来る日も来る日も、リヤカーを引き、
まずはお金を貯め、
大型のダンプを買いトラック野郎に
あの頃、映画にもなっていたあの感じのまま⁈

そして、少しでも時間短縮のため
丸太で作った、ダンプ一台
ギリギリで通る事ができる幅の丸太の橋を
運が悪ければ、ダンプと一緒に、
谷底へ落ちてしまう恐怖を抱えながら走り続けた
実際に、何台も落ちて死んでいたと
ぼそっと飲みながら話していました。

まさに、男は、命掛けで稼いでいた時代です。

母と結婚する前は

極道の世界

いわゆる、ヤクザの親分

**組長をマジでしていました。 **

結婚を機に、ヤクザから足を洗う決意をする
親分だった身分からカタギになるには
ケジメをつけなければならない

それが、その世界から足を洗うためのしきたり
指をつめるか?
袋叩きになるか?
どちらかを選択しない限り
組を抜けることは許されない
それが、その世界のケジメ

その時、父は、指づめはもしかしたら
これから生まれてくる子供に
影響があるかもしれないと、袋叩きを選んだ

そして、袋に入れられ
組の人、全員から
殴る、蹴る、様々なことをやられ続け
その時間がどのくらいで、その間
どんな思いで、それを耐え抜いたのか?
想像するだけでも、
私は、奥歯を噛み締める思いです

そして、それがひとしきり終わりを迎え
無事に解放された後

父は、3日間は意識不明の状態

そして、4日目にやっと意識が戻った

その間、生死を彷徨った父
それを、祈りながら待ち続けた母
それぞれの思いが、交差しながら
なんとか、生きることを認められた
乗り越えることができ、けじめを自らつけたと
ある時、私に伝えてくれました

その時から、父の不死身伝説は
語り継がれていきます。

その後、急速に、回復して

次に、父がした行動は

背中と腕に入れた入れ墨を消す

入れ墨を入れてくれた彫り師の方のところへ行き

【入れ墨を消してくれ】と頼みに行きました

背中には、父の名前が龍伊と言うこともあり
見事な登り龍が色鮮やかに、
彫られていたらしいです

それを消すには、
描かれた部分の皮を剥がすしか方法はないと
墨を入れる時は、麻酔なんて打たねぇから
それでもいいか?と彫り師が父に語りかけます

すると父は、わかりましたそれでお願いしますと
すぐに、返事をし、
皮膚を剥がす作業がすぐに始まった

彫り師も、墨を入れるにも覚悟がいるが
それを消す時は、それ以上の覚悟がいると
父にどのくらいの覚悟があるのかを
試したのだと思います。

あの時代には、馬鹿がつくくらいの
熱いまっすぐな男たちがいたんだと
改めて唸ります

無事に剥がし終わった皮膚は
やけどのようなあとになり
再度、お尻の皮を剥がして
移植すればきれいになると
言われたらしいが、
さすがに、それは辞退したらしい

だから、腕の辺りの皮膚は
やけどのあとのようなままで
子供の頃に、お父さんここどうしたの?
って聞くたびに、父は、笑って
どうしたんだろうなぁ〜って
言っていたのを、覚えています

私が10歳くらいの時に
入れ墨のエピソードを母から聞きました。

父は、学校へ、ほぼ行っていません

漢字は、刑務所で覚えたと
得意げに自慢していました⁈

刑務所がどんなところなのかも知らない頃
酔っ払いながら言ってた⁉︎

中学生になり、その意味もわかり

父に、なんで刑務所に入ったの?と
素直に聞いた時、父は、また笑っていました。

母に聞くと、どうやら、
自分は何もしていないけど
身代わりに入ったらしい⁈それも、何度も⁈
実際は、今もわかりません⁈

で、出所する度に、
ヤクザの中で出世もしていき
で、氣がついたら組長までのぼりつめたらしい
まさに、成り上がり⁈

正確にはいつから始まったのかわからないけど
父を中心に、人が集まりはじめ
平沼組のカタチができたのはそのあたりから

1番多い時は、20人くらいの従業員がいて
なぜか?
刑務所上がりや、少年院上がり
訳ありな人や行き場がない人が多かった
地方の出稼ぎの人も

なので、警察も私服警官が
ちょくちょく来ていました。

だからなのか?
私服警官は、名乗らなくても警官だと
なぜか?わかります⁈笑
ヤクザもわかります⁈笑

やっぱり、においが違うよね⁈

従業員のごはんや、いろいろな切り盛りを
母が1人でこなしていました

睡眠時間毎日2時間くらい

誰よりも早く起き
誰よりも遅く寝る

そんなことをやっていたら
そりゃあ、体が悲鳴を上げるでしょう?

なので、母は、何年かに一度、倒れてしまって
生死をさまよい、
三途の川も、3度ほど観たこともあるとか⁈

母が倒れた時は
家族総出で、母の妹たちも呼んだりして
もう、てんやわんやの大騒ぎ
これをすべて1人でやっているなんて
本当に信じられないくらい⁈
そりゃあ、倒れるわ!
やってみてわかること!
まさに、神技の域でした⁈

その間も
元のヤクザの組の奴らの誘い
飲み屋のツケの代金の取り立て
従業員同士のいざこざ
従業員の元の良くない仲間たちからの誘い
家族や従業員たちのごはんの支度
食材などの買い出し
銀行などへの手続きや通帳記入融資などの相談
などなど、次から次へと⁈

元の組のヤクザの誘いは巧妙で
時に、子供さんは元氣ですか?なんて
揺さぶりもかけてくる
なので、保育園はバスで送り迎えを
してくれるところを選び
小学校は、家から道路を挟んだ向かい側に
たまたま、偶然にできました。
その頃には、そんな誘いも
ほぼ落ち着いていました。
ただ、父は、常にその近辺に注意を払い
日々守り続けてくれました。
そして、いつも、
鮮やかに、見るからに鋭く光る白木の短刀が
枕元にそっと置いてありました!

で、忘れもしない場面
飲み屋の代金の取り立ては、
土曜日などの昼間に
下っ端のチンピラが
怒鳴り声を上げながら
玄関先で吠えている場面が
度々ありました。

そんな時も母は、
毅然とした態度で

払うものは払うわよ
ただ、この料金の半分
それが、飲み込めないのであれば話は終わり
あなたじゃ、話にならないから
もっと話のわかる人を連れて来なさいと

なんだこのばばぁ、殺すぞこらぁ

どうぞ、どうぞ
殺せるもんなら、ここにいる
子供たちの前で殺してくださいと
洋裁の大きなハサミを差し出す母

覚えてろよと
その場を去るチンピラ
ドラマなどでよく聞くあのセリフ
本当に使うんだなぁ〜って知る瞬間でした⁈笑

その後日、その組の親分らしき人が来て

うちも今、お支払いできるのはこれだけ
これを毎月、きっちりと
お支払いしていくことを約束しますと
お話をしていました。

そんなことも、知らないふりをして
父は、飲み歩き
酔っ払うと、一晩で300万円も使っちゃう
豪快な人でした
酔っ払うとめちゃめちゃおちゃめで
ひょうきんでお人好し⁈

ただ、そんな母がいたから
そんなことができたんだろうなぁ
なんとなく飲み歩きたい、
そんな父の氣持ちも、今ならわかります⁈

そういえば、銀行や誰かからお金を借りる時や
工事の代金をもらいに行く時
なぜか?一緒に連れていかれました⁈
子供の子守も兼ねて
子供と一緒の方が親身に話も聞いてくれて
ごまかされることも少なくなると
母なりの経験から得た知恵だと
あなたたちが一緒の方が
ちゃんとお金がもらえるんだ
と話してくれていました

すべてを包み隠さず伝えてくれました

なので波瀾万丈な場面は
子供の頃からも見ていました。

そんな父と母に育てられ
そんな場面もなんとなく覚えています。
そんな記憶が、
私の今の根本の根っこにあります。
学歴もない、学もない
けれど、手先は器用
発想力と想像力と行動力はある

それだけで、父と母は
のし上がり、築き上げていきました

それを生で見て、育ちました

車の整備工をしていた時代に
ダンプの燃料サブタンクを商品化して
世の中に出したらしいけど
その権利を、当時、
生活が厳しかったこともあり
お金に換えて、生活費にしてしまった

あれがあれば、
今頃はハワイ旅行に毎年行っていたよなぁ〜って
酔っ払いながら話している時がありました。

今は、普通になっている
コンクリートのガラを
砕いて、砕石にして材料にしちゃえばなんて、
父がその会社の社長にどこかで話して、
今では、神奈川県で大きな会社になっています。

そんな父は、ガス工事を、私が子供の頃は
やっていました。

ガスの本管の工事

決めらた部材を使って、
いろいろな角度、いくつも接続して
ガスを通していく
単純だけど、それを道路に合わせて
配管をしていく
これをできる人は、日本にも数名しかいなくて
なかなかできないらしい
そんな発想力と技術で、
信頼され、工事を依頼されていた

人としても、あたりまえのことをしていた
お祝いごとがあれば
すぐに、駆けつけ、盛大に祝福し
不幸なことがあれば
すぐに、駆けつけお悔やみと
少しばかりの現金を渡す

家には、明治神宮の本堂と鳥居をバックに
父が従業員の方々と写っている写真があり
天皇陛下からの表彰状もあった

明治神宮のガス配管
サンシャイン60の下のガス配管を
実は、平沼組が施工しました。

結構、私も知らないところで、
実は、平沼組が配管したガス配管が
今もどこかでガスを流していたりしています⁉︎

父の1番、華々しい時代だったのかも⁈

そう、その順調な順境な時から
少しずつ、何かが崩れていきます

と、まずは、ここまで
続きはまた次回!
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