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蛍の怪(9) ー大江戸奇譚草紙ー

   九

「宇兵衛さん。今日は泊まっていってくださいな」

「うん。そうしたいのだがね」

「ここのところ泊まっていってくださらないのね。あたしが嫌いになったの」

「そうじゃない」

 さよの拗ねるような言い方に思わず否定した宇兵衛だったが、まなとの激しいやりとりの後、泊まることがなくなったのは事実だった。

 近頃はどんなに遅くなっても五ッ半(午後九時)までには帰るようにしている。

 そのことにさよが不満なのは承知している。だが、さすがに奉公人の前でのやりとりには、気がひけるものがあった。

「あたしね。芸者をやめようと思っているんですよ」

「どうしてだい?」

「分かってるくせに」

 さよはその後の言葉をすぐに言わなかった。

「身体がね。きついんです」

 さよはぽつりと言った。

 宇兵衛はすぐに答えることができない。

「それにね。お座敷で色目を使う旦那がいるんですよ」

「えっ!」

 宇兵衛が驚いたのを待っていたかのように、

「あたしは宇兵衛さんを頼みにしているんですから」
 さよが銚子を置いて、じりっと寄ってきた。

 そろそろ腰を上げようか、と思っていた宇兵衛にしなだれかかるようにして、

「だから、あたしをしっかり捕まえてくださいな」
 甘く囁いた。

「おさよ……」

「今夜は帰さない」
 さよが手を絡まるようにして、その場に倒した。

 翌朝、まなとの一戦を覚悟して、宇兵衛が恐る恐る店に帰ると、暗に相違してまなはいなかった。

「どこに行ったんだい?」

「急に思い立ったとかで、箱根へ湯治にお出かけになりました。二、三日泊まってこられるそうですよ」

 宇兵衛は気を張っていた分だけ、

「湯治だって」
 と、拍子が抜けたような声になったが、落ち着くと、

「またか……」
 腹が立ってきた。いつもこうなのだ。

 勝手に決めて勝手に行動して行く。主人である宇兵衛には事前の相談をしたことがない。

 商いのこと以外は、あたしの勝手でしょう、という態度だった。

「いくらなんでもそんなことは、あらかじめ言ってくれなくちゃ困るじゃないか」

 思わず朝餉の膳を持ってきた女中のおたきにあたると、

「あたしに言われても困りますよ。それに旦那さまは、夕べお帰りにならなかったじゃありませんか」

 と、反撃されてしまった。事実なだけに言葉の返しようもない。

「すまなかった」

 と詫びたが、女中にさえ馬鹿にされたようで、宇兵衛は自分で自分が嫌になってしまった。

 激しい自己嫌悪の後で、やはりおれはこの店に必要ないのかもしれない、という思いがじわりとこみ上げてきた。

 朝、別れしなに、さよに言った言葉が思い返された。

「お前さんとは離れられないよ。ずっとこのまま一緒に居ておくれでないかい」

「うれしい。あたしはお座敷に出るより、旦那さまを待つ方が生に合ってるんですよ。これからずっと待っていてもいいですね」

 さよの言葉も嬉しいものだった。

「まなに私は要らないな人間だ。だが、さよには私が必要なんだ」

 宇兵衛ははっきりと決意した。

 朋書堂と縁を切ってもいい。さよといっしょに暮らそうと。

 ――だが、待てよ

 朋書堂と縁を切って暮らしていけるだろうか。

 宇兵衛は手に職があるわけではない。さよも芸者はやめると言っているのだ。

 朋書堂と縁を切ったとたんに、生活に苦しむのはあきらかだった。

「どうしたらいいんだい」

 思わず天を仰いだ宇兵衛の目にくすんだ色の天井板が目に飛び込んできた。

 それからの宇兵衛は慎重になった。さよといっしょに暮らす算段がなかなかつかなかったためである。

 結局、良い思案も浮かばずに、だらだらと日が過ぎていった。

 店の者はうすうす感じているようだった。ただ、まなはまだ知らないようである。店の者も遠慮して言わないのだろう、と思われた。

 裕福なお店の旦那が、女を外に囲うことは、この時代よくあることである。

 入り婿の立場、まなの気性を知る店の者は、おおかたが宇兵衛に同情的であった。

 番頭と息子は、店の名前に傷がつかなれば良いようで、ことさらに何かを言うわけではなかった。

 このまま息子に店を譲って隠居しようか、隠退を条件にさよとの暮らしを選んだらどうか、と近頃では真剣に思い始めている。

 それ以外に良い思案が思い浮かばないのである。

 師走を控えたある日、宇兵衛は思い切って、番頭の惣蔵と長太郎を前に話をした。

 隠居をすると宣言するわけではなく、そろそろどうかと考えている、とにおわす感じである。

「ご隠居ですか」

 番頭は意外な顔をした。

 息子もまだ代を取るのは早いと言った。

 二人の答えは宇兵衛にとって意想外なものだったが、その理由はすぐに分かった。

「実は旦那様」

 読本を出そうかと考えているのです、と惣蔵と長太郎は言った。

(続く)

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