ある男|23−1|平野啓一郎
弁護士の城戸章良と面会した日の三日後、里枝は、このところますます部屋に籠もって本ばかり読んでいる悠人に、お風呂から上がったら、話があるからと伝えた。
里枝は先に花と一緒に入って、前歯が一本、グラつき出したという気恥ずかしそうな報告を聞いた。
「よかったねぇ。みせて? あ、ほんとだ。はやいんじゃない、クラスのなかでも?」
「うん、はとぐみでは、ひなのちゃんだけ。──あのね、はなちゃんね、きょう、ひなのちゃんって、よぼうとしたのに、まちがって、ひののちゃんっていっちゃって、はしもとせんせいから、わらわれたんだよ。はなちゃんって、ばっかー。」
花は最近、この「はなちゃんって、ばっかー。」が気に入って、ほとんど毎日のように口にしていた。その度に、里枝は「ばかじゃないでしょう、はなちゃんは。」と頭を撫でてやるのだったが、ひょっとすると、そうして欲しくて言っているのだろうかという気もした。
ほんの半年ほど前までは口癖だった「はなちゃん、こうおもうよ。」は、このところ、すっかり耳にしなくなっていた。成長が、娘をめまぐるしく変化させているので、一年前がどうだったかという記憶は、自分でもふしぎなくらいに曖昧だった。花らしさというのは、あるにはあるはずだが、それも一般的な子供らしさと見分け難いところがあった。
それでも、里枝にとっての救いは、花の〝笑い上戸〟だった。父親が早世しているだけに、こども園でも、花の明るさが殊に気に懸けられていたが、どの保育士に会っても、「花ちゃんはいつもニコニコしてて元気ですね。」と言われた。クラスで一番明るいと、保護者からも言われることがあり、里枝はそれが何よりも嬉しかった。
悠人が風呂を上がったのは、十時頃だった。花はもちろん、祖母ももう就寝していて、リヴィングには里枝だけが残っていた。パジャマを着た悠人は、彼女を素通りしようとしたが、
「こーら、話があるって言ったでしょう? 待ってたのよ。」
と声をかけた。
「……何?」
悠人は、面倒臭そうだったが、近頃では、そうして率直に感情を表してくれる方がいいのかもしれないと思っていた。難しい境遇だけに、独りで抱え込んで、気がつけば処置の施しようがないほどに拗れてしまっている、というのが寧ろ不安だった。思春期の反抗も、離婚した夫、死んだ夫の分まで受けて立とう、という気でいた。
悠人は、母の表情から、何ごとかを察したように椅子に座った。
「何?」
「三日前にね、一昨年からずっと、お父さんのことを調べてくれてた弁護士さんが来てね、……やっと全部わかったの。どうして名前を変えてたのか。……」
悠人は、母の手許にある伏せられた書類に目を遣った。その端を摘まんで、里枝は先ほどから無意識に、丸めたり伸ばしたりしていた。
「誰だったの?」
「悠人にどこまでのことを話したらいいのか、お母さん、迷ってるの。だから、悠人に訊こうと思って。──全部知りたいか、今はまだ、知らなくていいか。」
悠人は、しばらく黙っていたが、
「お父さん、悪いことしてるの? 警察に捕まるような?」
と尋ねた。里枝は、首を横に振った。
「ほんの少し。──名前を変えてたことだけ。……」
「どうして?」
「ここに書いてある、全部。弁護士の先生がまとめてくれたの。」
「じゃあ、読む。」
「すごく、……何て言うか、……ショックを受けると思う。お母さんも、まだ受け止めきれてないの。」
「遼が死んで、お父さんが死んで、……それよりショックなことなんかないよ。」
悠人は手を差し出すと、城戸のまとめた資料を受け取って、パラパラと分量を確かめた。意外と多いという風に、「上で読んでくる。」と、一旦二階の自室へと下がってしまった。里枝は、木の階段を上っていく息子の跫音からその心情を探った。
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