新書『「カッコいい」とは何か』|第4章「カッコ悪い」ことの不安|4『仁義なき戦い』に見る「カッコつける」という当為
この「カッコいい」の表層と内実との合致/乖離という問題が端的に表れているのは、「カッコつける」という言葉である――。平野啓一郎が、小説を除いて、ここ十年間で最も書きたかった『「カッコいい」とは何か』。7月16日発売に先駆けて、序章、終章、そして平野が最も重要と位置付ける第3章、4章を限定公開。 「カッコいい」を考えることは、「いかに生きるべきか」を考えることだ。
※平野啓一郎が序章で述べる通りの順で配信させていただきます。「全体のまとめである第10章にまずは目を通し、本書の肝となる第3章、第4章を理解してもらえれば、議論の見通しが良くなるだろう。」
4.『仁義なき戦い』に見る「カッコつける」という当為
「カッコつける」とは?
この「カッコいい」の表層と内実との合致/乖離という問題が端的に表れているのは、「カッコつける」という言葉である。
この言葉は、ひょっとすると、私が子供の頃よりも、耳にする機会が減っているかもしれない。近い言葉として、関西弁の「ええカッコしい」というのがあるが、こちらは比較的、まだよく耳にする。
「カッコつける」という動詞は、「カッコいい」が流行し出した六〇年代に、必然的に生み出された言葉で、基本的には、ネガティブな意味に捉えられている。
そこでは、「恰好」の表面性が最大限に強調されていて、中身がないのに、うわべだけを取り繕い、実際以上の好印象を人に求める態度と見做される。外観と内実とにギャップがあるわけだが、一見するとおちゃらけているのに、演奏は素晴らしいというクレージーキャッツが「カッコいい」のだとすれば、まさにその反対である。
かつては「カッコつけマン」などという言葉もあった(1)が、「カッコばかりつけて」、「あの人はカッコつけたがりだ」、「カッコつけた言い方が気に入らない」などは、明らかに悪い評判であり、〝自然体〟だとか、〝ありのままの自分〟といったキーワードが好まれる昨今では、無理をして「カッコつける」ことは、忌避されているように見える。
要するに、この言葉は、内実はそのままで外観だけ良くしてごまかす、という意味である。
従って、私たちは、メッシに憧れて、自分も彼のようになりたいと練習に励むサッカー少年を、「カッコつけてる」と嘲笑したりはしない。その場合、外観だけでなく、内実も変化することが目指されているからであり、そのために、努力をしているからである。
「カッコつける」は、「恰好が良い」状態という普通への適合ではなく、やはり幾らかそれ以上の、「カッコいい」が目指されている。気障という言葉があるが、そのわざとらしさが嫌味に感じられ、あざとく、滑稽に見えてしまう。そして、本当は「カッコ悪い」からこそ、「カッコつけてる」のだと見透かされることになるのである。
『仁義なき戦い』
ところが、よく似た言葉だが、「格好がつく」となると、話は少し変わってくる。
それは、一般的な基準をどうにか満たしているという程度の意味で「恰好が良い」ということである。
「つける」という、いかにも取ってつけたような他動詞ではなく、自動詞として、収まるべきところに収まったという感じがする。「どうにか格好がついた」と言えば、恥ずかしくない程度にはなった、という意味である。
「カッコつけない」は、自然だという意味だが、「格好がつかない」は、困惑させられる、憂うべき状態という意味である。
さて、「格好がつかない」という言葉が、一種の行動規範として随所に轟く映画が、東映ヤクザ映画の金字塔『仁義なき戦い』(一九七三年公開)である。
この作品こそ、「しびれる」ような名場面満載の「カッコいい」映画の代名詞であり、今日でも熱烈なファンがいる。実を言うと、私もその一人で、オリジナルの全五作は、ほとんど台詞を暗記してしまうほど何度も見ている。
私はヤクザに憧れないし、暴力も大嫌いだが、この作品は大好きで、その矛盾に頭を抱えてしまう。それはまるで、人間は、
「その実物を見るのは苦痛であっても、それをきわめて正確に描いた絵であれば、これを見るのをよろこぶ」
というアリストテレスの『詩学』の説のようだが。……
とにかく、菅原文太も梅宮辰夫も小林旭も、そもそもがハンサムだが、とても三十代で演じているとは思えないほど迫力のある大物ぶりである。
彼らは、私たちが退屈している日常の秩序を逸脱して、殺すか殺されるかという権力闘争の渦中で、生気を放っている。奇声を上げて死ぬことを怖がったり、死に物狂いで逃げたり、銃をうまく使いこなせなかったりと、「カッコ悪い」場面も多く、それがまた人間のリアルな姿として、絶妙なコントラストを成している。
それでも、ヤクザが完全に美化されているかというとそうでもなく、抗争が一般市民を巻き込み出すとさすがに鼻白むし、警察に逮捕され、取り調べを受ける場面では、職員室に呼び出されたヤンキーのように、見る影もなくなってしまう。だからこそ、この映画は、単純なヤクザ礼讃とは一線を画す作品となっているわけだが。
作品の影響力は絶大で、ハリウッドではタランティーノの作品にその〝オマージュ〟が認められる一方で、私が十代の頃に、やはり「カッコいい」ヤンキー漫画として一世を風靡した『ビー・バップ・ハイスクール』にも、初期には、高校生たちがその名台詞を真似するパロディ的な場面がちらほら見られた。
「わしが殺らにゃ、格好つかんじゃろ。」
『仁義なき戦い』は、一九五〇年から七二年にかけて広島で実際に起きた暴力団の抗争事件を題材にしている。原作は、その中心的な人物の手記に基づくノンフィクションだが、勿論、映画的に脚色が加えられているので、ここで扱うのは、実際の抗争事件ではなく、飽くまで映画の中の話である。
全五作のオリジナル・シリーズ中、第一作目は、戦後間もなく、呉市の闇市から出発した山守組が、対立組織との抗争と内紛を経て勢力を拡大してゆく様を、広能昌三という主人公を中心に描いている。時期的には一九五〇年代初頭である。
作中、広能とその兄貴分の若杉との間で、こんなやりとりが交わされる場面がある。
「兄貴、ほいじゃあんた、土居殺る言うの?」
「わしが殺らにゃ、格好つかんじゃろ。」
「あんたじゃ、なんぼにもいけんよ。のう? 杯返したいうても、親は親じゃ。それに手ェ出したら、兄貴がみんなに笑われるじゃないですか。」
かつて土居組の若頭だった若杉は、親分に破門され、今は広能も属する対立組織の山守組の客分となっている。山守組のシマを荒らす土居組の組長を自分が殺すと言い、でなければ、「格好つかんじゃろ。」と言うのである。それに対して、弟分の広能が、親分に刃向かっては、むしろヤクザ社会で笑い物になる、と諫める場面である。
若杉が言っているのは、土居組は元々自分が若頭を務めていた組であり、それが今属している組に害を及ぼしている以上、自分がこの問題に対処するのが筋だ、ということで、これは、ある意味、私たちにもわかる話である。
対して広能は、たとえそうだとしても、それはヤクザ社会では「格好が悪い」のだと諭している。ヤクザとしては若杉の方が先輩であるだけに、捻れた説教となっているのが面白い。
広能の認識では、ヤクザ社会は、「組」というピラミッド型の疑似家族的組織を基本として成り立っている。それを支える思想は、徹底した家父長制度である。親分に対する子分の忠孝は絶対であり、若頭は、その一家の長男に相当する。
『仁義なき戦い』では、確かにタイトルにある通り、「仁義」が強調されるが、その意味は原義からは懸け離れていて、むしろ形式的な「秩序」の意味として使用されている。
それはそうだろう。「ケンカ」では、殺し合いが当然というヤクザの世界では、実質的な仁義など求めようがない。「仁義なき戦い」を、
「『仁』はひろく人や物を愛すること」、「『義』は物事のよろしきを得て正しい筋道にかなうこと」(『日本国語大辞典』)
として、それがない戦い、などと解釈したのでは、当たり前すぎて笑ってしまうはずである。
この世界の絶対のタブーは、杯を交わした子分が親分に刃向かうことである。また弟分が兄貴分に逆らうことである。
親分は、カタギの政治やビジネスに暴力を背景として密接に関与し、一家を経済的に支えている。暴力と労働の実体は、組織の子分たちだが、彼らは単体ではそのような権力を社会の中で発揮できず、生計が成り立たない。また、対立組織に対抗できない。従って、組を守るというのは、彼らの生存の根本条件であり、親子間の勘当に相当する「破門」は、親分による生殺与奪権の行使であって、子分はこれを非常に恐れる。
組の看板があるからこそ、子分も生きていける。しかし同時に、親分に権力があるのも、子分という実働部隊がいればこそである。
『仁義なき戦い』も、第一作目で描かれるのは、まだ戦後の闇市から誕生したばかりの新興ヤクザであり、組織的に不安定で、子分は親分に刃向かうし、親分は子分同士の対立を煽る。なぜなら、親分はまだ十分に経済的な実力を子分たちに示すことが出来ないからであり、他方で武器を持ち、暴力を実践する力を持っているのは子分の方だからである。御恩がなければ、奉公する理由がない、というわけで、ヤクザ社会の理想からはほど遠い。
第一作目で、松方弘樹扮する坂井鉄也が、親分の山守に向かって言い放つ「神輿が勝手に歩けるなら歩いてみいや!」という有名なセリフは、このことを象徴的に示している。
しかも、ヤクザ組織は、本来の意味での「仁義」のような、共同体を維持する倫理的規範を持ち得ない。決して徳治政治ではなく、また、人に対する思いやりだとか人権意識などといった概念は、彼らの行使する暴力と矛盾する。そこで、子分は親分に対して絶対服従する、という形式的秩序を何としてでも守る以外にない。
これが、『仁義なき戦い』に見られるヤクザ社会の唯一の掟である。
親分のお陰で子分は生きていける。親分もまた子分のお陰で生きていける。この関係が互恵的に循環することが理想である。
ところで、親分に相応しからぬ人物がその地位に就くとどうなるか?
子分は逆らえないという絶対的な掟の故に、ひたすら割を喰う羽目になる。これが、親分たる山守の仕打ちに憤る広能の一貫した不満であり、完結篇では「つまらん者が上に立つと、下の者が苦労する」という積年の思いが、網走刑務所で手記を綴る場面で吐露され、シリーズが総括される。
だからこそ、引退する親分の「跡目(=後継者)」問題が、彼らの最大の関心事なのである。
形式的な秩序維持
第二作目の『広島死闘篇』は、第一作目の外伝的なものだが、興味深いのは、本作から、登場人物たちの台詞に「カッコつけにゃいけん」、「カッコつけんにゃならん」という当為表現が現れることである。
しかも、第一作目の一般的な筋論とは異なり、ヤクザ社会の形式的秩序維持のために、彼らは「〜しなければならない」と自覚的に行動するようになる。そしてこれが、六〇年代初頭の抗争事件を描く第三作目『代理戦争』、第四作目『頂上作戦』では、物語の根幹を成す重要な概念として、主人公の口から発せられるのである。
『代理戦争』は、広島市最大の暴力団村岡組の次期組長と目されていた杉原が射殺される場面から始まる。賭博の揉めごとが原因だったが、実行犯に指示を出した人物は、何喰わぬ顔でその葬儀に出席している。しかし、極度の緊張からか、急に怖くなったのか、杉原の遺体の顔を見て嘔吐してしまう。
その様子を見ていた広能は、杉原に次ぐ実力者と目されていた打本と、こんな会話を交わす。
「打本さん、兄弟分のアンタが、カッコつけてやらにゃいけんのじゃないですか? もし殺るいうんなら、ワシが手伝いますけ。」
「広能、ありゃあ、村岡さんが呼んどる客人じゃけ。……」
打本の弱気な態度に、周囲は顔を見合わせ、「ワシらは見んかったことにしますけ。」と、今すぐにでも殺してくるべきだと詰め寄る。ところが、打本は結局、笑って曖昧にごまかしてしまう。
葬儀の出席者たちは、その態度に強く失望し、打本は、広島を支配する村岡組組長の「跡目」としては相応しくないと判断されるに至る。結果、村岡の引退後、当然に、自分こそが後継者だと信じていた打本は脱落し、広能属する山守組の山守義雄が後継者となる。しかし、両者の対立はこれを機に激化し、広島進出を目論む神戸の巨大組織をも巻き込んで、血みどろの抗争が繰り広げられる、というのが、第三作『代理戦争』及び第四作『頂上作戦』である。
さて、この場面の何が問題だったのか?
「カッコつけてやらにゃいけん」という広能の言葉通り、葬儀の出席者たちが問題にしているのは、打本が、報復として相手を殺さなかったことであり、それは、彼が兄弟分という立場のあるべき姿を逸脱しているからである。
もしこれが罷り通るなら、組の親分、兄貴分は対抗組織に殺され放題であり、結果、組自体が崩壊してしまう。元々、「事業家」と称される打本は、ヤクザ社会の常識に疎く、行動規範からはズレている。それは「カッコがつかない」ことであり、だからこそ、彼は親分に相応しくないのである。
義務としての「恰好」
第三作目、第四作目になると、ヤクザ組織の疑似家族的秩序は、第一作目の時代よりも遥かに安定している。その価値観を愚直に信じる広能は、どれほど山守の酷い仕打ちに腹を立てても、「親に弓を引く」というタブーを絶対に犯さない。それは、自分が親分から「的に懸けられる(=暗殺のターゲットになる)」状況でさえ維持される、理解し難いほど強固な掟である。なぜならそれは、ヤクザ社会全体を危機に陥らせる行為だからであり、恥であるばかりでなく、今や彼自身も、若い衆を引き連れた広能組の親分であって、言わば自殺行為だからである。
だからこそ、広能は苦悩する。彼の認識は、ヤクザ社会の理想と現実との深刻な乖離である。自分だけでなく、皆が「カッコをつけにゃならん」にも拘らず、兄貴分の打本も、親分の山守も、平気で規範から逸脱してしまう。
しかし、元々、その「恰好」には、実体が欠けている。親に絶対服従すべき理由は、本当のところ、組織維持の形式的理由以外にはないのである。だからこそ、常に内実があるかのように「カッコつけにゃいけん」のである。なるほど、そこには、一種のシニシズムがあろうが、それは、「カッコをつける」という言葉の一般的なチャラチャラした意味よりも、遥かに切迫した内容を含んでいる。
実際に、この時代のヤクザ社会の中で「カッコつけにゃいけん」という言葉が、どの程度、用いられていたかはわからない。原作『仁義なき戦い〜美能幸三の手記より』(飯干晃一)にも、「恰好つける」という言葉は何度も用いられており、映画の脚本で、それがキーワードとして強調されている点は慧眼だが、原作も映画も、七〇年代になって、「カッコいい」という言葉が大流行した後に書かれているので、あとから加えられた認識かもしれない。
この映画に見られる、疑似家族制度下の絶対的な上下関係という主題は、第二次世界大戦下の総動員体制の経験と不可分であろう。広能自身が復員兵という設定であり、彼の苦悩は軍隊組織に於ける上官と一兵卒との関係、あるいは大日本帝国下の臣民の経験に擬せられる。また『代理戦争』というタイトルや被爆地としての広島の強調など、全篇にわたって政治的なアレゴリーに富んでいる。
更に、戦後の高度経済成長期の会社組織ともオーヴァーラップするからこそ、多くのファンが、その理不尽に翻弄される彼の姿に、強く共感したのだった。
脚注
(1)『日本俗語大辞典』
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