鏡
最初の客先での話が早く済んだ。次のアポまでぽっかり空いてしまったので、会社近くのデパートで休憩することにした。外回りの急な空き時間。これが営業のうまみだと思う。
まずは入ってすぐ、一階の靴売り場とバッグ売り場をざっとひと周りする。2月も後半というのに、今もワゴンセールが細々と続いていた。掘り出し物がないか一応確認するが、さすがに売れ残りの感が否めない。
昼は決まって3階のカフェだった。エントランスに足を踏み入れた瞬間から、「プリンとサンドイッチ&コーヒーのセット」の口に、もうなっていた。エスカレーターをぐんぐん歩いて登る。
人の財産を預かる仕事。給料はいいが正直楽なことではない。朝起きれば眉間に皺を寄せて経済新聞に目を通し、昼は笑顔で顧客を訪問、数字が出なければ帰って上司に怒鳴られる。ここを出ればまたその繰り返しのなかに戻るだけだが、今だけは離れることができる。仕事の合間のひとり時間は束の間の安らぎだったが、それに勝るご褒美もないように思えた。
「さて、と。」
次の約束時間が近づいてきた。おかわりした二杯目のコーヒーを、ぐっと喉に流し込み支払いを済ませると、わたしはトイレに向かった。
平日のデパートが空いているのはいつものこと。それはここで化粧直しをするのが好きな理由の一つでもあった。コツ、コツコツ。自分のヒールの音が、誰もいない洗面所に響く。用を済ませて手を洗って、そのまま大きな鏡の前でコンパクトを取り出し、ファンデーションを塗り直した。
足音がしたので、パフを戻して視線を上げると、鏡に髪の長い女の後ろ姿が写っていた。背中側にも簡易な化粧台があり、合わせ鏡の状態になっている。女は鏡の前で背中を少し丸めバッグの中を探していて顔は見えなかったが、背中合わせのわたしたちは同じ目的でここにいるに違いなかった。
わたしはポーチから口紅を出して、赤いものをリップブラシに取った。そして鏡に向かってゆっくり顔を近づけた時、なにか、すごく嫌な感じがして止まった。そしてすぐ、その違和感に気がついた。
目の前の鏡に、後ろにいる女の顔が映っていた。わたしと同じく化粧を直しているであろう、今背中合わせになっている女の顔だ。
わたしは目が離せなかった。鏡を覗き込んだ女は真っ赤な口紅を手に持ち、それを唇に当てて塗り始めたのだがその手が止まらない。口紅はぐるぐる、口のあたりで円を描き続ける。その赤い線は唇をはみ出してもなおぐるぐると描き続け、しまいには女の顔の下半分に「O」の形をした巨大な口が出現していた。
あっけに取られて見ていると、巨大な口を開けた女と、鏡越しに目が合った。
O。
顔の上を回り続けていた口紅が、ピタ、と止まった。