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地下鉄

土曜の朝のこの時間、電車に乗るといつもその人はいました。気がついたのは約半年前。この路線を使うようになって、わりとすぐのことでした。綺麗な人で、歳は三十手前といったところでしょうか。彼女はいつも髪を低い位置でまとめて、品の良いパンプスを履いていました。柔らかそうなたっぷりとしたマフラーを巻いた姿は感じが良くて、この時間帯の車内はいつも空いていましたが、きっとそうでなくても目を引くものがありました。

今日も彼女は先に座っていました。どの駅からかわかりませんが、彼女はわたしが乗る前にはすでにシートに腰掛けていて、この後の駅でわたしより先に下車するのです。
わたしはいつも通り、なんとなく彼女の斜め前に座りました。彼女はキャメル色のふんわりとしたコートを着て小ぶりなブランドバッグを膝の上に乗せていました。いつも通りきちんと足を揃えた姿は綺麗でしたが、意外なものが目に留まりました。パンプスの先についた泥でした。彼女らしくありませんでした。

そっと顔に目をやると、いつもはまとめている髪を今日は下ろしてあり、根元まで綺麗にカラーリングされた肩までの髪が顔を覆って少し暗く見えました。そして俯いていた彼女が少し顔を上げた時驚きました。頬のところに大きな赤黒いあざがあったのです。真っ直ぐ前を見つめるようないつもの彼女の横顔を思い出しました。その凛とした表情とは程遠い今日の姿にわたしの心臓がドクン、と鳴り、少し苦しくなりました。

その時右手に握っていたわたしのスマホがブ、と震えました。
「無事乗れたかな」
「気をつけて帰れな」

わたしはスマホをコートのポケットに突っ込みましたが、ポケットの中でスマホを握ったまま手を離せずにいました。彼女も手元のスマホにじっと目を落としています。心なしか目の周りが黒く滲んで見えました。

車内の電気が窓ガラスの黒い背景に乗客の姿を映し出していました。正面にぼんやり浮かんだわたしの顔は、昨日の夜より疲れて見えました。休日の朝の陽光とは無縁の真っ暗な地下道を進む列車を、暗闇の中だけで生きていられる生き物のようにふと思いました。誰にも気付かれないようにウネウネと地中で身を捩らせるだけの。

列車が次の駅に着いた時、再びポケットの中のスマホが震えました。
「来週また会おう」

わたしはこれで、いいのだろうか?

“閉まるドアにご注意ください”
そのアナウンスが聞こえてわたしは、右手に握っていたスマホをバッグに放り込むと、先に降りた彼女を追いかけて、急いで電車を降りました。



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