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他人の『わからん』を『わかる』のはむずかしい

他人との『不理解』を埋めるのは、めちゃムズいって話。

人に何かを教えるのは難しいとはいうけど、やっぱり一番難しいのは『自分が当たり前にできることを、できない人に教える』ということかもしれない。

なので、人に何かを教える時は想像力やヒアリング能力や忍耐がとても大事とされている。細かいセクションにわけて、段階的にわけて、どの段階が分かっていないのかを想像する、理解する。そして相手の行動を尊重し見守る。勉強とか仕事、スポーツなんかだと、このやり方がいいのかな。わからないけど。

この『自分が当たり前にできることを、できない人に教える』というのが、学びで得たものであればそういう教え方でいいかもしれないけど、世の中にはそうではない『気付いたらできていたこと』というのも、ままある。

例えば今、私は世の流れに逆らってネットリテラシーとか思考停止(短絡化)について色々考えたり調べたりしているけど、分かってない人に教える方法…というのが、未だによく分からずにいる。というのも、私は『いつの間にか知っていた』からだ。

勿論、当時とは流れる情報量やメディアの数は全然違う。それでも、現代の情報の正誤を見抜いたり、怪しい情報や偏った記事を見抜けたりはする。じゃあ、どうやって見抜いてるの?と聞かれると『見れば分かる』ので、特別な方法は用いていない。
本を読むとか、育った環境が違うとか、そういうのもあるとは思うけど、いずれにせよ『これで覚えました!』というのが、無い。

以前どこかで見たアンケートによると、どうやら多くの人は『自分には一定のネットリテラシーがあると思っている(が、ファクトチェックなどの概念は無い)(どういうこと…?)』ということらしい。こういう無自覚な無知が加わると、余計にこの『不理解の溝』を埋めるのが難しい。

そして、こうした話を好む人間もやはり現代は少ないので、議論で双方の理解を深めることもできない。
今日も私はAIちゃんに『イエスマンかお前は!全肯定するな!』と怒りながら、いろんな媒体で知識を得つつ、その『不理解の溝』を埋めようとしているのであった。孤独な戦いである。


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ひいらぎみかさ(ひらみ)
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