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誰かに似ている

「あ、これ紙じゃん」

ペーパーレスが声高に主張される時代だが、私は広告の原稿や資料は全部プリントして、紙面で確認するようにしている。
並べて全貌を把握するのに俯瞰できるし、広告に記載する情報の取捨選択がしやすいからだ。

しかし最近、スマートフォンの画面で人差し指と親指でスワイプして拡大する操作を、プリントした紙に対して何度かやってしまうことが度々あった。そして冒頭のように、自分でやった所作なのに、誰かのせいであるかのようにつぶやくのだ。

以前はそんな習慣なんてなかったのに、人は慣れる生き物であるなぁ、とつくづく思う次第である。

それと、メガネの度が合わなくなってきていることも原因かもしれないと考えて、私はメガネを新調するためメガネ店に行くことにした。

「いらっしゃいませ、こちらへどうぞ」

店員さんに促され、接客カウンターで今の状態を説明し、検査ブースでいくつかの視力検査を受ける。その検査の間、ずっと同じ店員さんが対応してくれたのだが、途中から私は懸命に思い出そうとしていた。

その店員さんは、誰かに似ているのだ。接客のためマスクをしているが、彫りが深くて、笑った時の目尻の笑いじわ、テレビでよく見るあの……、ほら、あれ、あの人、あの俳優さんだってば、と自分を急かすものの、全然名前が思い出せない。

顔は分かるのに名前が出てこないのは、じれったいことこの上ない。
こうなると最初はふと「あれ、誰かに似てる」と感じただけだったことが、いつしか全力で取り組まないといけない命題のようになり、もはやメガネを作りに来たことなど二の次である。

「お好きなメガネを選んでくださいね、お調べした度数で作りますので」

――ほら、声も似ている。ちょっとハスキーな、でも柔らかい声。顔が似ていると骨格が近いから声も似るんだろうか。

検査のブースからメガネ選びのため商品がディスプレイされている平台のゾーンに移動しても、私はその店員さんをチラチラ見て、思い出そうと余念がない。はたから見ると相当怪しい。

もう、その名前は口元まで出かかっているような気がするのだ。まるでゲームセンターのUFOキャッチャーのギリギリで景品が落ちそうな感じの瀬戸際感。

「では、1週間後には出来上がってますので、それ以降でしたらいつでも取りにいらしてくださいね」

出来上がりの日付など半分聞き流す感じで自分の記憶力と戦ったが、用事は全部済み、笑顔でお店を送り出された。私は私の記憶に敗れたのだった。
そう、UFOキャッチャーもギリギリで落ちないように。

そして、たとえば家でも仕事場でも、隣の部屋に行ったら何をしに来たのかすっかり忘れたが、元の部屋に戻ったら用事を思い出したみたいなパターンで帰路、私はその俳優さんの名前をいきなり思い出した。

――市原隼人さんだ!

その時に得た一致感、スッキリさは何にたとえたらいいだろうか。喉に刺さった小骨が取れたというか、ジグソーパズルの思いもよらないところが繋がって輪郭が見えたというか。
とにかく私は思い出し、非常に満ち足りた気持ちで家に帰ったのだった。

1週間後。
私は出来上がったメガネを取りに行った。やはりこの前と同じ、市原隼人さん似の店員さんが対応してくれた。

「こちら、かけてみてご確認ください」

やっぱり声も似ている。彫りの深い優しい眼差し、スッと通った鼻筋。パーツだけでなく雰囲気も似ている。そして何より笑顔の接客が素晴らしい。

私は「店員さんが市原隼人さんに似ている」ことを再確認して、自分の発見に大変満足した。そして本来の目的であったメガネを受け取って店を出ようとした時、つい誘惑に負けて、こう聞いてしまった。

「あ、あのー…、市原隼人さんに似てるって言われませんか?」

私と同じことを思った人が他にもいるのか確認したい衝動を抑えきれなかったのだ。しかし聞いてしまってから、その瞬間しまった、と思った。「はい、言われます」だと自慢しているみたいになるし、「いいえ、言われません」だと今度はその質問をしてきたとんまなお客を否定することになる。私はその店員さんを意図せず窮地に追い込んでしまった。痛恨のミス・クエスチョンだ。

しかし、接客上手な店員さんは、声をひそめて笑いながらこう返してくれた。

「あのー、コンディションのいい時、ホントたまーに言われます笑」

コンディションのいい時!すごく素敵な答えだ。
私と店員さんはアハハと笑って、私はとても愉快な気持ちで帰ったのだった。

 *  *  *

本エピソードの主題のようで小道具ですらなかったメガネは、私が終始上の空だったにも関わらず、市原隼人さん似の店員さんがしっかり仕事をしてくれたおかげで、大変快適だということを最後に添えておく。

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