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なぜ私は「花束みたいな恋をした」を見ても感動できなかったのか。
「花束みたいな恋をした」という映画について
ここ数年で一番大ヒットした恋愛映画といえば、「花束みたいな恋をした」と多くの若者が答えるだろう。インスタグラムのストーリーにチケットの半券を載せる人が後を絶たなかったことからも、20代を中心にした若者の間で話題になったことは間違いない。
ストーリー
絹と麦というサブカル大学生が趣味の話から意気投合し、付き合い、幸せな同棲生活を送る。しかし、モラトリアム期間が終わり社会の波に飲まれることによって生じた価値観の相違が埋められないギャップ生み、二人は別れてしまう。
口コミを見る限りこの映画が人気な理由は、麦あるいは絹に自己投影をすることによって、観客が自分の過去にしてきた恋愛を振り返れるからだ。自己投影を促すために多くの人が経験するであろう恋愛のパターンの始まりから終わりまでを描くことで、共感スポットが盛り沢山な作品に仕上がっている。例えば、偶然趣味が一緒だったり、ドライヤーで髪を乾かしたり、告白の勇気を出したり、仕事のせいですれ違ったり、etc….. これらのシーンにより、観客が過去の思い出に浸れるエモい恋愛映画として多くの人に支持されたのだ。
楽しめなかった私の感想
しかし、私(24歳の若者)はこの映画を見ても何がそんなにエモいのか理解できなかった。なんなら、有村架純とお風呂に入りたいな〜くらいの感想しか持てなかった。そこでこのnoteでは、なぜ私がこの映画を楽しめなかったのかを以下の2点に絞って記述する。
1.ストーリーの平凡さ
2.登場人物に自己投影できない
1.ストーリーの平凡さ
そもそもヒットする恋愛映画の条件は、何だろうか?
私は、社会的あるいは個人的な制約によって恋愛が制限されている二者が制約を乗り越えて恋愛するということが重要だと考えている。要するに叶わない恋である必要性がある。
社会的な制約としては、階級、宗教、人種、国家の対立が挙げられる。
例:「ロミオとジュリエット」、「ローマの休日」、「タイタニック」、「愛の不時着」、「美女と野獣」
個人的な制約としては、末期の病気、過去のトラウマ、SF的な設定などが挙げられる。(日本では、階級意識や民族対立が欧米に比べて少ないのでこちらのタイプが多い?)
例:「世界の中心で、愛をさけぶ」、「君の名は?」、「君の膵臓をたべたい」
制約の種類はなんでもいいのだが、何かしらの制約があることが重要だ。なぜなら、観客は叶わない恋だと知りながら惹かれ合う二人の愛の強さにカタルシスを感じるからだ。世界で一番有名な恋愛劇である「ロミオとジュリエット」であれば、血で血を争う家庭同士に生まれるという設定が物語の根幹を担う。なぜなら、二人が交友関係にある貴族の家に生まれれば、普通に結婚すればいいだけだからだ。親友のマキューシオも死なないし、バルコニー越しに隠れて話もしないし、ロミオも毒を飲まないし、ジュリエットも命を絶たない。つまり、二人の恋愛を阻止する制約が存在しなければ、ロミオとジュリエットは作品として成り立たないわけだ。
この点から考えると「花束みたいな恋をした」には、制約が存在していない。都会出身と田舎出身、親がブルカラーとホワイトカラー労働者という違いはあるが、信仰する宗教が違うわけでもないし、大病を患って死ぬわけでもないし、家庭環境が複雑なわけでもない。自由恋愛が認められ、治安が比較的安定している東京でモラトリアム期間をエンジョイしている大学生がただ恋愛するという物語だ。観客の没入を促すためにこのようなストーリ展開にしているのだと思うのだが、なぜ他人の平凡な恋愛をわざわざ映画館で見なきゃいけないんだと感じてしまった。
2.登場人物に自己投影できない
もちろんこういう平凡な日常を描く恋愛映画も一定数存在する。しかし、「アメリ」や「耳をすませば」、「ラ・ラ・ランド」のように主人公にエッジが立っていて魅力的なことが必要条件になってくる。しかし、この映画では登場人物に人間的な魅力を感じられなかった。そこで、ここではなぜ「花束みたいな恋をした」では、キャラクターに魅力を感じなかったのかを記述した上で、なぜ坂元裕二がこのように脚本したのかを考察する。
2-1 記号の交換というコミュニケーション
最初に気になったのが、二人のコミュニケーションのチグハグさだ。
絹と麦は知り合った瞬間から自分達が好きなカルチャーが同じだったことを発見し意気投合する。『押井守』や『天竺鼠』、『今村夏子』、『穂村弘』『ゴールデンカムイ』、『きのこ帝国』といったサブカルだったら好きそうな単語が羅列される。ただ、メインストリームの人にもこの作品が人気なことからも、登場する固有名詞は代替可能であり、好きなもので意気投合できるという体験に共感してもらうことがこれらのシーンの狙いだと思う。そして、社会の荒波に揉まれることで、分かり合えていた二人が分かり合えなくなってしまうという恋愛あるあるが展開されるための布石になるわけだ。
しかし、二人は最初から分かり合えていたのか?
絹と麦はマニアックな作品を見ているが、なぜそれが優れているかについて語ることはない。押井守を神と崇めるのに、サイバーパンクな世界観が好きなのか、人間の意識について問う哲学的な側面が好きなのか、ディストピアの描かれ方が好きなのかといった自分の意見を語ることはない。ただ、作品に紐づけられた記号の交換をすることによって自己のアイデンティーを確立したいだけにも思えてくる。つまり、二人の間には最初から他者理解のコミュニケーションが成立しておらず、わかり合えていたという感覚も勘違いに過ぎなかったのではないだろうか。別れの場面でも、相手の好きなミイラ展やガスタンクに本当は興味がなかったことが語られており、相互理解の放棄が垣間見える。
2-2. 価値観がぶれまくる麦
二人の破局の原因は、就職することによって二人の価値観がずれていったことだ。特に麦は、IT系ベンチャーに就職することでサブカルへの興味も無くしてしまう。
しかし、よく考えたらこんなに価値観がぶれまくる人間なんているのか?
彼はこの時点で二十数年生きているわけで、それだけ生きていたら自分の価値観や生き方というのはある程度固まっているはずだ。サブカル好きで社会を斜めに見ていた人間がいきなり「人生の勝算」みたいなメリトクラシー社会での成功者に憧れるというのは無理がある。かといって彼は成功するために意識高い系サラリーマンになるわけでもない。別れのシーンでは、「高島屋に行って、ワンボックスカーを買ってキャンプに行って、ディズニーランドに行こう」というサブカルや意識高い系サラリーマンが毛嫌いしそうな将来像を掲げている。
ここまでくると彼らには好きなものなんて最初からなかったのではないかと思えてくる。結局彼らは、自分が特別だと思いたい権威主義的で流されやすい人間なのだろう。サブカルが好きな理由も周りの先輩や友達に勧められたからだろうし、「人生の勝算」を読む理由も会社の先輩に勧められたからだろう。
特にこれが顕著に描写されているのは、音楽を片方ずつのイヤホンで聞くカップルを注意しようとする冒頭のシーンだ。音楽は両側のイヤホンで聴くようにデザインされているというファミレスで説教してきた胡散臭いおじさんから得た知識を現在の恋人に我が物顔で語っている。このシーンから二人の主義主張というのは他人から見聞きしたことの集合体であり、彼らが没個性的な人間だということが描写されている。
以上の2点から、正直こういう人間と恋愛はしたくないなと冷めてしまい、登場人物に自己投影ができなかった。
2-3. ダメ人間っぽいキャラクターを描いた作者の意図とは?
こういったキャラクターの主体性のなさというのは、脚本家である坂元裕二が意図して取り入れたのだろう。では、なぜコミュニケーションもできないし、価値観もブレブレな登場人物を脚本家が設定したのか?
それは、これが彼が考える現代の若者像だったからだと私は考える。この作品は普通の人が普通の恋愛を繰り広げることで、観客が共感できるように意図されている。そのために登場人物は、自己投影しやすい普通の若者である必要がある。つまり、麦や絹の性格や恋愛の仕方というのは、彼が考えた現代の若者の性格像や恋愛の仕方をステレオタイプ化したものなのだろう。
こう考えると主体性のない絹と麦という人物は、若者の思考能力の低下を象徴しているようで馬鹿にされているようにも感じる。更には、54歳のおっさんが若者ウケしそうな作品を作って、それが若者に盛大に受けているという事実もなんだか虚しく思えてくる。
終わりに
しかし、よく考えてみるとこの作品は、ある程度このような批判を前提にして設計されたのかもしれない。
私のようにこの映画にネガティブな感想を持つタイプの人間というのは、斜に構えてメインストリームな人々を見下す傾向にある。そしてこの構図は、麦と絹が「ショーシャンクの空」や実写版「魔女の宅急便」の話で盛り上がる二人組を批判するというシーンと一致する。ただ、蓋を開けてみれば絹も麦もポップカルチャーを否定することで特別な人間になったと思いたい凡人なのだ。つまり彼は、私のような斜に構えた感想を持つ人間も彼らのような薄っぺらい人間なのだと批判したいのかもしれない。現に私もわかったような面をしてnoteに駄文を書き連ねているではないか。。。。。。
ここまで考察してみるとこの作品は、軽薄に作ってあるようで物凄い深いメッセージ性を内包しているのかもしれない。私も、映画のレビューなど書いたことがないのに、このモヤモヤを言語化したいと考えて4000字のレビューを書かされている。そういう意味でこの映画は2010~20年台を生きた若者像の提示と、にわかサブカル批判という2つのことを成し遂げているのではないだろうか。恐るべし坂元 裕二。
おしまい。