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考えることは孤独な営みか

 考える前の、思いをめぐらす時間が好きだ。子が寝静まったあとに温かい飲み物を入れ、穏やかな音楽を小さな音量でかける。お香を焚くときもある。そして罫線のない自由帳とジェットストリームのボールペンを取り出す。そこからが私の「思う」時間だ。とりとめなく頭の中に浮いては消えていく物事を紙に書き留めたり書き留めなかったりする。こういう時間は好きなのに、「考える」ことには苦手意識がある。「考える」というと少し構えてしまう自分がいる。はたして考えることはむつかしいことなのだろうか。

 「考える人」といって真っ先に連想するのは大学の教授だ。彼らが私にとってむつかしいと感じる言葉や専門用語を用い、自分の考えを学生や一般の人たちに伝えている姿を私は思い浮かべる。彼らは暫定的な自分の考えを持ち、さらにそれを積み上げていく手立てを知っていて、常にそれを更新していっている。私は「自分にはそれができない」という意識がある。手持ちの言葉は足りないし、ものを考えていくための手立てもさほど知らない。自分の持っているものは考えというほど明確でなく、あやふやでおぼろげな姿をしていると感じている。

 たしかに、専門分野を持つ大学教授に比べて私の方が考えていると言える物事があるとは到底思えない。しかしその一方で、考えることは私たち一般人の手中にだってあるものではないかという気もしてくる。

 小林秀雄は『考えるヒント2』「考えるという事」でこう書いている。

「宣長によれば、『かんがふ』は『かむかふ』の音便で、もともとは『むかえる』という言葉らしい。考えるとは、物に対する単に知的な働きではなく、物と親身に関わる事だ。物を外から知るのではなく、物を身に感じて生きる、そういう経験をいう」。

 「物と親身に関わる事」「物を身に感じて生きる、そういう経験」とは生活に根差してものごとを考えることを指しているのではないか。生活する中で起きる物事に対して立ち止まって考えてみること、逃げずに受け入れてみること、そういうことを指す気がする。

 それなら私にだってできるのではないか。思えば、いま私が持っている思想の起点は病を得たことや子が生まれたことにある。目の前に起きた物事を自分の体験として私なりに親身に感じて考えてきたはずだ。冒頭に書いた「思う」行為だって「考える」ことの一部であるように思えてくる。私は単に「考える」ことについて過剰にコンプレックスを持っていただけで、日常の中で私なりに自然と考える行為をしてきたのではないだろうか。

 いったい私の考えることに対するコンプレックスはどこにあるのだろうか。かつてある友人が私にこう言った。「萌ちゃんのいいところは、物事を深く考えようとするところだね」。大学で倫理学を専攻していて、バタイユの本を読んでいる人だった。私にとって彼もまた「考える」ことのできる人の一人だった。それを聞いて私はこう思った。「友人は鋭い。そう、私は物事を深く考え『ようとする』が、実際に深く考えることができるわけでは決してない」と。我ながらネガティブだ。素直に喜べばいいのに。

 「物事を深く考えることができない」とこぼす私に、別の友人がこう言ってくれた。

「『深さ』は考えることについての一つの要素でしかない」

と。確かに考えることはさまざまな要素を持つ。深さだけでなく広さ、その質や量、また長い時間をかけて根気強く考える力もあれば、その場でアイデアを思いつく瞬発力だってあるだろう。その友人の言葉は、私の考えることに対しての視野が狭くもあったのだ、という気づきをくれた。

 同じ場に居合わせたまた別の友人はこう言った。

「『考えようとする』起点を作ることができれば、そこから先は、自分一人で考えなければいけないわけでもなく、他者の頭を借りながら進めていってもいい」。

この言葉は数日間私の心に残り続けた。

 ひとりで考えなくてもいい。確かに、ひとりだけで考えることには限界がある。たとえば私は自分の考えを話すとき、生きてきた経験について語りがちだ。私の生きてきた時間はたかだか30年余りだし、この先長く生きても70年ほどで、人類の歴史からいうとあまりに短い。私の日常は自宅から数キロ圏内で営まれていて、地球上の人間が生活する範囲に比べるとあまりに狭い。私というちっぽけな存在が考えることにはどうしたって限界がある。だから友人は他者の頭を借りようと言った。

 そう言われてみれば、読書という営みも同じだ。その道について自分より先に広く深く考えた先人の頭を借りながら自分の思考を少しずつ広くしたり深くしたりしていく過程のように思う。そもそも何かを学ぶということはそういうことなのかもしれない。その道の先達の弟子になって学んだり、何かテキストを使って学んだりすることは、一度他者が考えたことをトレースする過程をたどるはずだ。

 読書会や哲学対話、ワークショップに参加することも他者と共に考えることだ。哲学対話を実践している永井玲衣は『水中の哲学者たち』「ずっとそうだった」でこう書いている。

「皆が想像するような『問うひと』たち。彼らは顔をしかめ、頑固なシワを眉間に刻み、ひしゃげた身体をもてあまして、苦痛に苛まれている。考えることは苦しむことだ、とでも言いたげだ。だがもしかしたらその苦しみの原因は、考えることじゃなくて、孤立にあるのかもしれない。ひとりきりで思考の海に潜っているからかもしれない。(中略)そしてその苦しみを、問いの深淵さと取り違えるときもある」。

 永井がここに書いているように、ひとりで考えることは時に苦しい。「自分の頭で考えなければ」と思うほど思いつめてしまうときもある。そういうとき紙に考えを書いてみれば、紙は聞いてくれるし、紙とペンは共に考えてくれる。それも大事な営みだ。しかしそれでも限界が来たときは他者に聞いてみよう。問いを共有してみよう。あなたにとって考えるとはどういうことを指すのだろう。他者に問うことで、ひとりでは感じることのできなかった自分の輪郭が手触りを持って感じられるかもしれない。対話を通して、思いもよらなかった他者や自分の姿を発見するかもしれない。私たちは物事を考えるとき、自分の頭で考えようとすることだけでなく、他者と問いを共有することの両方を大事にするべきなのだろう。


この原稿はエッセイストの紫原明子さんが主宰する「もぐら会」の「書くことコース」で11月に書いたものです。テーマは「考えるということを考える」でした。

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黒木萌
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