フルマル広告事務所 第1話


 新大阪駅から歩いて約10分のワンルームマンションの一室、濃紺の金属ドアにオレンジ色の樹脂にフルマル広告事務所と白抜きしたプレートが貼ってある。プレートは簡単に着脱のできるマグネット式になっていて、普段は外しておき、来客のあるときだけペタッと貼り付ける。そんな面倒なことをやっているのは、事務所としてよりも個人で契約する方が家賃は安いからで、事務所としての顔を出すのは必要最小限にとどめているのだ。

 ライターの仕事を始めて20年になる。屋号どおり広告のコピーと企画、情報誌の編集や取材記事などを本業とするが、物書きとしての技術を使って、冠婚葬祭のスピーチや寄稿文の代筆といったゴーストライター的な仕事もときどき拾っている。

 屋号は僕の布流円朗(ふるまるろう)という名前からとったものだ。人から珍しがられることが多い名前だが、これは父が米国のハードボイルド作家、レイモンド・チャンドラーの愛読者だったことに由来する。チャンドラーといえば私立探偵フィリップ・マーロウものが有名だが、僕の円朗という名は、マーロウのもじりである。自己紹介のときなど、「えっ、もう一度言って」と必ずと言っていいほど聞き返され、「もっと普通の名前にして欲しかった」とものごころつくまで思っていたが、二十歳を過ぎてチャンドラーの小説を読み、その面白さ、タフでしかも心やさしくウィットに富んだ会話ができるフィリップ・マーロウという主人公に惚れ込み、それからは彼にちなんだ名をつけてくれた父に感謝できるようになった。その父も30年ほど前に六十で他界し、気がつけばあと数年で父の享年を追い越す自分がいる。

「チーフ、ヒョウタニさんとおっしゃる方からお電話です」

 窓際の自分のデスクで電話を受けたアシスタントの松尾多美が、僕に声をかけた。僕のデスクは、ドアから入り、小さなキッチンのある短い廊下を抜けたところにある。受話器を取ると、低くて艶のある、威圧的ではないがドスの利いた声が耳に入ってきた。

「ホームページを見て電話してます。結婚式の祝辞を頼まれて困っているので相談に乗ってほしいのですが」

 電話ではあまり立ち入ったことまで聞かず、面談でじっくり話を聞くのが僕のやり方だ。二日後の午後、事務所に来るように伝えて電話を切った。

「結婚式のスピーチの代筆依頼ですか、チーフ?」

 松尾には僕のことをチーフと呼ばせている。社長と呼ばれるのは面映ゆいし、布流さんでは師弟の雰囲気が出ない。円朗さんでは馴れ馴れしすぎ、考えたすえ、違和感が薄そうなチーフに落ち着いたのだ。

「うん。貫禄のある感じだった。天王寺の方の人らしいよ」

 松尾多美が僕の事務所で働くようになって、かれこれ一年になる。うちのホームページを見て「コピーライターになりたいので雇ってもらえませんか」と電話をかけてきたのが去年の春。受賞経験もないし、コピーライターとして売れているわけでもなく、贅沢は言わずに目の前の仕事をこなしながら食いつないでいる自営業者としては、とても人に給料を払う身分でない。人を雇うことは考えていないと断ったのだが、「アルバイトでよいので、お願いします!」と食い下がる彼女の熱心さ、切実感に心が動き、とにかく一度面接をしてみることにした。

 面接に事務所にやってきたときの松尾は、無印良品的な飾り気のないブルーのジャケットにベージュのパンツ、前髪を少し長めにして流したおかっぱ頭、ほとんどノーメイク。話してみると落着きと思慮深さが感じられ、大阪市が定める最低ラインの時給という条件で雇うことにした。賃金が払えそうになくなったら頭を下げてやめてもらおうと思っていたが、定期的な仕事が二つ受注でき、儲かるまではいかないが、ここしばらくはなんとかやっていけそうな目途がたってきたので、そろそろ月給制に切り替えようかとも考えている。

 依頼主は約束の時間通りにやってきた。交換した名刺を見ると、株式会社ポピーズ代表取締役、標谷健一とあり、ようやくヒョウタニがどう書くのかが知れた。標谷氏は四十代半ばという風貌で、背は低い方だが、かっぷくが良く、精悍な浅黒い顔には艶があり、金まわりのよい男ざかりという印象。首元までボタンをとめた黒いシャツに黒のジャケット、クリーム色のスラックス、袖口から金のブレスレットを覗かせるという、一つ間違えば下品になりかねない装いも、いかにも着なれた感じで似合っている。                                 来客用の小ぶりなソファに座った標谷氏は、低く小さなセンターテーブルをはさんで向かいに座っている僕を一瞬値踏みをするように眼光鋭く見つめてから話し始めた。

「甥の結婚式で親族を代表しての祝辞を頼まれているのですが、何をどうしゃべればいいか、どうにもまとまらないんです。それでネットでスピーチの代筆サービスとか、祝辞の文例集とかいろいろ見たんですが、ピンと来なくて。こちらなら直に面談して相談できるというのが気に入ったんです」

「それはどうも」

「仕事関係のパーティであいさつをすることもありますし、PTAの会長もやっていまして、人前で話すことは一応なれているんです。スピーチはだいたい女房が書いてくれましてね。しかし、今回は女房には無理だろうと。それでこちらへお願いしてみることにしたんです」

 彼が立ち上げたポピーズという会社は、ホテルや旅館、民泊、エステティックサロンなどに用意されている石鹸やシャンプー、歯ブラシ、櫛、シャワーキャップ、化粧品など、いわゆるアメニティグッズの専門商社で、小さい会社だが業績は右肩上がり、年商数億の売り上げを続けているという。近々結婚式を挙げる甥の良太は、数年前から彼の会社でバリバリ働いているという。

「甥であり、同時に社員でもあり、なんですね」

「そうです」

 デスクでパソコンに向かっている松尾は、いかにも仕事をしているような雰囲気を出しながら、標谷氏の話を聞いているのがわかる。松尾は、今は仕事に関心が向いていて、結婚など遠い先のことのようだが、気にはなるのだろう。

「で、結婚される相手はどんな方なんですか?」

「三ツ星銀行T支店の支店長の娘です」

「名門銀行の支店長の娘さんと、躍進する新進企業のホープ。絵に描いたような良縁じゃないですか」

「まあ、そうなんですが」

 その後、甥の人柄や二人のなれそめなどを聞いていったが、とくに祝辞を述べる上でネックになるような要素はなかった。甥の良太は高校時代はラグビーに没頭し、プロになろうか迷うほどの腕前だったという。しかし、幼い頃から可愛がってくれた叔父の標谷氏を慕う気持ちが強く、自分も実業の世界で可能性を試してみたいとの思いを抱き、大学で経営学を学び、卒業と同時にポピーズに入社した。結婚する相手は同じ大学の一年後輩で、キャンパスでは顔見知り程度だったが、半年前にとある異業種交流会で再開し、そこから本格的な付き合いが始まったのだという。

 一時間ほどが過ぎた。この手の仕事の場合、だいたい一時間くらい話を聞くと必要な情報が入手でき、二、三日後にメールかファックスでスピーチの原稿を相手に送ることにしている。

「それじゃ標谷さん、今日お聞きしたことで原稿をお作りしましょう。三日ぐらいでお送りしますので、ご意見をいただいて、必要があれば手直しをして仕上げましょう」

「よろしくお願いします」と腰を浮かしかけた標谷氏のなんとなく浮かない表情にひっかかった。

「すいません。標谷さん、もう一つだけ質問させてください」と彼が席を立つのを押しとどめた。「こんなことを言っては失礼かと思いますが、ここだけの話としてお聞かせください。いろいろお話しいただいたのですが、実は何かが足りないような気がするんです。標谷さんはぶっちゃけたところ、この結婚に何か抵抗があるんじゃないですか?」

 成功した実業家、高価なファッションに身を包む成功者、それまでの標谷氏の艶のいい顔に陰りのようなものが現われた。

 まずいことを聞いてしまったか、と後悔しかかった時、僕の後ろから松尾の声が聞こえた。

「あのお、すいません」

 振り向くと松尾がもじもじしながらも、まなざしを標谷氏に向け、何か言いたそうにしている。

「どうした、松尾くん。標谷さんにお聞きしたいことがあるなら、言ってみなさい」

「あのう、さしでがましいようですが、一つお聞かせください。標谷さんのお生まれはどこですか?」

 松尾の問いかけにキョトンとした標谷氏の顔に、次の瞬間、サッと赤味がさした。

「N区のTです」

 N区のTと言えば大正時代から今に至るまで連綿と生息してきた赤線地帯。その界隈に足を踏み入れれば、昼間でも独特の怪しい雰囲気が漂う。

 松尾の質問がきっかけで、標谷氏のひっかかりが一気に見えてきた。

いわば日蔭の町で育ち、そこから飛び出し、自分を磨き、事業家としてのし上がってきた標谷氏。ビジネスの世界でまぎれもなく成功者になった彼だが、甥の結婚式がきっかけで、乗り越えてきたはずの生い立ちの影が顔を出したのだ。

「私の実家は居酒屋をやっていました。親戚は今でもほとんど水商売とか肉体労働をやっています。良太の父親は競艇の選手をやってました」

 良くやった松尾。後の話をつなぐのは僕の仕事だ。

「こんどの結婚式には親戚の方たちも参列されますよね」

「はい」

「花嫁さんの親戚は銀行のエライさんとか、いわゆる上流の人たち」

「そう。ですから、わしら場違いなんちゃうんかと、親戚の皆は気持ちがウロウロしています」

 もやもやとしていた霧が晴れ、標谷氏がなぜコピーライターの僕に連絡をしてきたのか、そして僕が何をやるべきか、そのとっかかりがようやく見えてきた。家柄の違う双方の親族の間で、自分は一体何が言いたいのか、何が言えるのか。そんなことを腹を割って話し合ううちに、気がつけばさらに一時間が過ぎていた。

 上流とか下流とか、生まれた条件に差異はあっても、今輝くことが素晴らしい。リベンジとかじゃなくて、人間としての誇りを標谷氏は甥の良太に、そして披露宴に参列する親戚の皆に伝えたいのだ。そんな彼の思いを言葉にするのは簡単ではない。しかし、やりがいのある仕事に思える。

ホッとした満足気な顔つきで標谷氏は帰っていった。入れ替わりに「こんちわ~」と入ってきたのは、よく仕事を手伝ってもらっているコピーライターの宮西拓斗で、僕よりふたまわり近く若く、週に二回は事務所に顔を見せる。スーパーの袋を提げているので「今日はおみやげ付きかな?」と声をかけた。

「ビール買ってきました」

 時計を見ると午後六時を少し回っている

「松尾くんも一緒に飲もう。今日は良い仕事をしたからな」

「はい。スーパーでおつまみ買ってきましょうか」

「そうだね。ところで松尾くん、あのタイミングでなぜ、標谷さんに生まれのことをたずねることを思いついたの」

「私の学生時代の友人がちょっと前に結婚したんですが、標谷さんのところと全く反対の立場だったんです。彼女の父親は国立大学の教授。結婚相手の彼は中堅企業のサラリーマンなんですが、ご両親が大衆演劇の役者さんだったんです」

「昔でいえば公家と河原乞食の縁組みたいな」

「まあ、そうですね。結婚式を控えて彼女の両親ががたがたしてるって聞いたことがありました」

「なーるほど」

 横で拓斗が何があったのか聞きたそうにしている。クライアントの個人情報は守らなければいけない。しかし、標谷氏のスピーチづくりを拓斗が手伝うと言うなら話は別だ。

 数日後、標谷氏に祝辞の草案を送った。「いざというに光るのは身分、学歴よりも人間そのものの価値」というメッセージを、標谷氏自身のこれまでの人生に重ねてはという拓斗、松尾の意見を反映した祝辞となった。


第1話 了



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