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母語ってなんだろ

私の母語は、一応、愛知県一宮市の方言、と言っているのだけど、ホントのこと言えば、何処の方言ってこともなく、父と母が話していたことば、姉が話していたことば、祖父母や親戚が話していたことば、回りの大人たちが話していたことば、の影響を受けて話すようになったことばだ。

 それは誰にとってもそうなのだろうけど、多分、自分の言語生活と言うか、どんな大人と話していたかを思い出してみると、母と姉と学校の先生と母方の祖父、くらいが思い浮かぶ。驚くほど父と会話した記憶がない。
 思えば、母は、その母(私の祖母)が美濃の人で、純粋な(?)一宮のことばの話者ではない。それで言えば、父こそ私にとって一番身近な一宮のことばの母語話者だったのだけど、父のことばが、一宮のことばの典型かと言われると、それは違う気もする。
 そこへ来て、父との会話の記憶がない(笑)いや、もちろん、会話したことがないわけじゃないけど、父の口数は少なかった。

 さて、そんなことを思う一方で、方言調査の時に、言語形成の時期に同居していたご家族のことなどを調査協力者の方に聞くけど、どんな大人とよく話していたかとかも大事なことだな、と思ったり。そして、そんなことを聞けるようになるのは、なかなかちゃんと人間関係を作ってからじゃないと、と思ったり。

 もっと言えば、その人にとっての母語、というか、その人が使うことばって、その人が、どんな人たちと関わってきたかを示すものの1つ、という側面もあって、だからこそ、誰が使う、どんな言語も、同じ価値を持っていると言えると思う。

 ある尊敬する先生が、科学の重要な要件として、「再現性」というのがあるのならば、言語学は究極的には、科学たり得ない、ということを仰っていた。何故なら、突き詰めれば、1つとして同じ言語はないから。

だとして,それでも人間言語の普遍性とか多様性(の限界)とかを知ろうとするのが,言語学。そこに自然科学のような意味での再現性はもしかしたらないかもしれないけど,でも,それも程度の問題の話でしかないような気がする。人によって異なる言語の中の,ホンの一掴みかもしれない「これだ!」という動かないものを明らかにするのが,言語学。なのかも。【この部分は2/22追記】

 そんなことを考えた、国際母語デーでした。

#みんなの母語デー