見出し画像

私の父親

前回は「私の母親」というテーマで書いたので、今回は父親について書いてみようと思う。


高校野球部の監督

母親のときに書いた内容と重複してしまうが、やはり高校野球部の監督というのがまず出てくる。

母親のときに書いた内容よりも少し深堀りしてみる。

私が物心ついたときの父親は「野球のグラウンドで何かをしている人」であった。

思い返すと、高校球児たちに指揮・指導をしていたのだが、それがわかるようになったのはもう少しあとの話。

そんな父親は「都立の名将」と呼ばれる実績を持った人でもある。

最初に赴任した島の高校で都立初?の東東京ベスト16、その後赴任した高校でも4校連続でそれぞれ東/西東京でベスト8を残している。

ベスト4以上までは勝ち進めていないが、やはり私立名門校の壁は高いようだ。

だが、野球が強い生徒を直接取ることが出来ない都立高校で、連続ベスト8の成績を残すことが出来るのは本当に凄いことだと思う。
(公立高校でスポーツを経験したことがある方にはわかるはず)

そんな父親は、定年退職までは高校の保健体育の教諭であったが、今は高校野球の監督をやっていて、今も甲子園を目指している。
(息子の私から見ても、とても充実していそう)


背中で語る父親

上述したように高校野球部の監督であった父親はいわゆる「イクメン」ではなかった。

だが、これはネガティブな意味ではない。

そもそも、私の父親たち世代(今の60,70代)は今の「イクメン」ではない方が多かった気もするが。

平日の夕方は練習、土日祝日は練習試合や公式戦、ないときは練習で、終日休暇という意味では年間を通して数日だったと記憶している。
(おそらく、元旦と大晦日、あとは春夏秋の公式戦に負けた翌日、年間2回の家族旅行)

では私が寂しい想いをしていたかというと、そうではない。
(私には弟が2人いるが、おそらく2人もそうだと思う)

私から見た父親は、「甲子園に行く」というチャレンジを続けていて、常に楽しそうに見えた。

世の中の父親たちは何かに疲れ切っているように見えて、多くの大人たちは生きるのもなかなか辛いのだと思った記憶がある
(私が高校生で、電車で通学する際に周りの大人を見てそう感じた)

そんな父親の私への影響力はなかなか大きく、大学2年の夏頃までは高校教諭になり、テニス部の監督をしようと考えていたくらいである。

もちろん、ほとんど家にいなかった父親に不満がなかったのは母親の私たち3人の息子に対する多大なケアもあるだろう。

↓母親について書いた記事はこちら
(母さん、私はちゃんとわかってますよ笑)

ただ、何にしろ私の父親は背中で語るタイプの方であり、大人になっても人生が楽しい生き方があると教えてくれている。


これからの父親

「私の母親」で書いたように、妻である私の母親が亡くなってしまったので、今は1人で暮らしている。

もちろんそれは寂しいとは思うのだが、これまでと変わらず今も甲子園を目指している。

ちなみに、野球一本で生きてきた父親なので、他は何も出来ないかというと実はそんなこともない。

家のことは一通り自分で出来るし、何なら料理や掃除は母親より父親の方が上なのではないかと思う点もある。
(母親もかなり出来る人だったので、父親のレベルは相当高い)

そんなこんなで1人暮らしをしているが、やはり人生の目標は甲子園出場かつ甲子園での1勝と聞いている。

東/西東京から甲子園に出場した都立高校としては、国立、城東、雪谷、小山台の4校のみらしい。

父親にもここに名を連ねる都立高校の1校の監督になってほしいと思っているし、そこまで遠い話ではないと思っている。


まとめ

私の父親は基本野球一本でやってきた人で、今の「イクメン」と言われる父親像とは大きく違っている。

ただ、それが必ずしも悪いわけではなく、少なくとも私たち3人の息子には良い影響を与えている気がする。

あとは、甲子園出場+甲子園での1勝を成し遂げてほしい。

それが父親本人はもちろん、もはや平岩家、天国の母親の悲願だと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?