samisisa(さみしさ)について
このテーマを取り上げた理由は。昨晩21時からのドラマ「海のはじまり」
主人公の海ちゃんの台詞「海がいないと、さみしい?・・・」がきっかけ
寂しさとは
今回は寂しいであり、淋しいではない。
寂しさはどんな時にやってくる?
とタイトルに書いておきながら最近の生活において自分へ寂しさはやってこない。幸せなこと。人や物事の存在がなくなり、そこから虚しく感じることになるということは、大切な人や物事の存在がなくなることが前提にあるとするならば、最近の僕にはやってこない。3年前に大きな出来事があったけど、それはもう3年前。散々語ったこと。
そういえば中野サンプラザがなくなる。凡庸な美しさの象徴である中野サンプラザ。なくなると寂しくなるのだろうか。なくなっても思い出は残るから、そこに中野サンプラザは存在して寂しさは訪れることはないのか。
寂しさは悪か
ウィリアム・ブリッジス(Bridges,W.)は『転機(トランジション)の始まりは何かが始まるときではなく、何かが終わるとき』と提唱している。
#キャリコンですから
何かが終わった時、寂しさを感じるかもしれないが、一方でそれを始まりと捉えると必ずしも、寂しさは悪ではないのではないか。悪いことでもないのかな。。。
次の1歩を踏み出せる。ある側面から見ると悪のように見える景色も、ある側面から見ると希望の道の景色に見えることも。
昔と今
と寂しさを正当化しておきながら、昔は「寂しさ」を感じることを、伝えることを遠ざけていたと思う。そんな弱い自分が当時は嫌いだったのだろう。
今は、この寂しさを自ら取りにいっている感覚がある。寂しさを自ら取りにいくとはどのようなことであろうか?そこから何を得ようとしているのか。
寂しさを自ら取りにいく
どういうこと?そう、どういうこと?どういうことである。
ふと考えちゃって。
寂しさは「人や物事の存在がなくなり」が前提にある。その一方でそこから浮き上がる儚さがみえてくるように思う。なくなるからこそ、見えてくる、浮き上がる光景こそが儚さ。
そこから、紐解くと寂しさ故の美しさがそこには表れてくるように思う。