一期一会
本当に自分の信じているものは、空気のように共にあるため、それが自分の信念体系を作り上げているとは思いもよらなかったりする。
世の中の理や法則といったものが好きな人は知らず知らずにそこに寄りかかっていく。寄りかかり、そこを拠り所にすると、やがて依存がはじまり、偏っていく。そして最後には陶酔していくことになる。
陶酔とは居着くことでもあるし、居着いたらそれは即幻想の世界に入っていく。
理とはすばらしいものだけど、陶酔してしまったらそれは理という幻想の世界に入っていく。
法則も法則幻想になりうるし、科学的なモノの考え方が好きだったらエビデンス幻想の中に入っていくことは十分にありうる。あこがれや自分の中心になる考え方はなんでも幻想の世界に入っていく可能性を秘めている。
「目覚めなさい」とは幻想から目覚めよということなのだ。
これさえ分かっていれば大丈夫なんてものはこの世に一つも存在しないということだ。
だから教えは分かったと思ったら即捨てた方がいい。
日々の生活に真理をみる、そしてそれを名付ける。言語化することでこの世に理を顕現させる。言語化することで再現しようと試みるのだが、再現というのはコピーの始まりなのである。
「あ!」と気づいたらそこでおしまい。その後は気づきのトレースの世界に入っていく。あの感動をもう一度の世界。本来流れているモノを固定していく世界に突入する。
そしてコピーはコピーを生む。するとはじめの気づきからどんどん薄まったものが世の中に蔓延することになる。
どこにも拠り所を作らない。寄りかかるものがなくなった時にはじめて大地の有難さに気付くことができるのだ。
自分をずっと支えていたもの、自分を成り立たせているものに出会っていく。アタマだけで考えていると拠り所を失くすことは不安定な気がしてしまうが、実は自分を成り立たせているものの存在がいつでもあることを知ることはくつろいで過ごすことに繋がっていく。
何も寄りかかるものがないからこそ、その時その時の自分と出会えることができる。自分の中のポテンシャルが引き出されていく。そして、一つ一つの出会いが身に染みるようになる。それは人だけでなくモノやコトも一緒だ。
人には色んな時期がある。くつろいでいる時もあれば、切実な時もあって、悲しいこともやってくれば、心に穴が開いたようになる時もある。
そのどの時の自分も毎回毎回違うものだし、いつも同じと思っている人も毎瞬毎瞬違う時を生きている。だからやっぱり一期一会だなと思うんだ。
風に揺れる柳のように、流れる川のように拠り所なく自然にそこに在る。これがカタチのないカタチということなんだ。