2024夏一首評21

顔のないこどもの声が駆けている朝の終わりにトーストを焼く
/吉岡優里「ベランダから見える公園」

https://note.com/mahiruno_tanka/n/n4e7a49a1de57
(※初出は「まひる野」誌だと思います)

 歌から、有無を言わさないこのひとの主観、が強烈に届いてくる。し、それが同時に【わかる】ものである。とき、すごくいいものを読んだ……という気持ちになる。

「こどもの声」が聞こえて、その声の主を思い浮かべるともなく思い浮かべるとき、大体の体格とか雰囲気はイメージできても「顔」はイメージするのが難しい、気がする。とりあえずそういうことなのだとして、それを「顔のないこども」と表現するのは、このひとの主観が優先されすぎていると思う。でも、だからこそ、それが【わかる】ということの持つ力は強くなっているんじゃないかと思うんですね。主観が優先されている、つまり、伝達という目的から離れた言葉の運用がなされている、にもかかわらず【わかる】。これはその分、狭い的に対して精度高く当てる、みたいなことに成功しているということなんじゃないでしょうか。

「朝の終わり」というのもそうですね。便宜的にこのくらいの時間かなというのはあっても、明確な決まりはないわけで、それを言い切るまでには当然主観が挟まっていることになる。だいたい皆「朝の終わり」という感覚はそれぞれにあると思うんですね。その区切り方は時刻でも気分でもなんでもよくて、この言葉はそのそれぞれの主観的な「朝の終わり」の感覚を引き出すことができるのだ、ということが重要なんだと思います。

 読者が、このひとのものであるひとつの感覚を読み取りながら、それを自分のものとして連想することができる。そういう成功の形のある一首だ、と思います。

雨粒に星の粒子が迷い込み濡れてゆくほど光る気がした
/吉岡優里「ベランダから見える公園」

https://note.com/mahiruno_tanka/n/n4e7a49a1de57

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?