2024夏一首評12

雪は水 普通に君に好かれたいことをモテたいって言い換えた
/川谷ふじの「とびきりのジュース」

『おだやかなささくれの羽ばたき』

 なんかすごいことを、話してくれている……という感動がある。ありますね。

 たったひとりの「君」がいて「君に好かれたい」という気持ちがある。読者からしたらその「君」って誰なのかわかんない、とはいえ、この時点ですでに一種の告白の要素があるわけですよね。「君が好き」でもなく(と言い切るのも語弊がありそうですけど)、「人に好かれたい」でもない。「君に好かれたい」という気持ち。この歌の内容自体がそれを言い換えたっていうことで、つまりは一度隠されたものだったわけです。それがここで開示されている。その重みは確実に乗ってくるものだと思います。

「君に好かれたい」を「モテたい」と言い換えるとどうなるか。なんて話はわざわざしなくてもいいんでしょうけど、要は「君」に好かれる可能性がある程度高くなりそうな方向で普遍的に願望を広げて言ってみたということですよね。理にかなっていると言えばかなっているんですが、でもそれって、普遍的な「モテ」を得ることはもしかしたら「君」に好かれることから遠ざかることかもしれないっていう、ある可能性をいったん無視しているわけです。
「普通に君に好かれたい」、「普通に」という言葉がここに挿入されているのは、つまり、そのトレードオフをうっすらと自覚しているということなんだろうなと思います。「普通に」のオルタナティブとして横に見えるのは「特別に」でしょうか。「特別に君に好かれたい」だったら、たぶん、「モテたい」に言い換えることができないんですね。普遍的な「モテたい」に言い換えたことが、逆説的にその元の本当の願望に「普通に」を付け足させた、ということなんだと思います。その言葉のせめぎ合いが、願望のせめぎ合いが、有機的にというか、伝わってくる。

「雪は水」だけれど「水は雪」ではないですよね。ちょっと構造的に見過ぎかもしれませんが、これはその変化の不可逆性というものを象徴しているんですね。「モテたい」と言い換えてしまった願望からは「普通に」を取り除けない。そこはきっと不可逆なわけです。

 ひとの気持ちが表現によって不可逆な変化を成す、ということはたぶんどこにでもいくらでもある。しかしその過程が可視化されることはあまりないですよね。この歌は、すごいことを話してくれている……と、思います。

失くすのはいらなかったからって言葉もう言わないで中指の花

エスカレーターでふたりが縦になる愛は秩序に絶対負ける

ファミチキの油に濡れるくちびるが私のすべて 書いてもいいよ
/川谷ふじの「とびきりのジュース」

『おだやかなささくれの羽ばたき』

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