2024夏一首評18

托卵はなにも盗んでいないのにすべて盗んだインパクトがある
/小俵鱚太『レテ/移動祝祭日』

 短歌という詩型には、一旦 言い切る ことができる、性質があると思う(だからこそ逆をすることもできるとも思う)んですけど、この歌はその面白さを感じさせてくれた歌です。

 たしかに「托卵」は「なにも盗んでいない」ですね。自分の卵を多種の巣に置いて、代わりに孵させて育てさせるというものなので、盗んでない。むしろ逆(?)だ。
 であるにも関わらず「すべて盗んだインパクトがある」、というこの歌の主張は、わかる。個人としては主観的な共感の表明しかできないのだけれど、とにかく、わかる、と思った。それで、内容が共感を誘うものである、というのもそうだろうけど、むしろここでは、言い切られていることの力が強く働いているのではないかなと思う。「ある」と言い切られると、けっこう押し切られるというか、仮に違うと思ったって短歌として言い切られている以上なにか指摘しても(ひとまず)意味がない。
 結果、わかる、と思ったということが読者には残るし、この歌はすごいことを見つけ出している/言っている歌だな、というような印象も残る。

 そうはいっても、概念的な何か、たとえば「本来の雛の成長機会」とかを盗んでいる、とは言えるんじゃないの。みたいなことが出てくるのはその後だ。遅れて反論が出てくる(托卵されて産まれた雛って元々巣にあった卵を落としたりするらしいですね、みたいな話は余談ですけど)。
 そのことこそが、一旦 言い切る こと、の力を証明するのではないかと思うんですね。いつまでも反論が出てこないようなことだったら、別に言い切れていなくたって納得させることができちゃいますもんね。

 最終的にまあまあ反論の余地がある「托卵はなにも盗んでいない」はともかく、いずれにせよ「すべて盗んだインパクトがある」というこのひとの主観には反論の余地はない。主観だから。そして、このひとがこれを言い切ることができているのは、それを自覚しているからなんだろうなと思います。前提が多少揺らいでも、ここが動かない。この歌の「インパクト」が、揺るがない。……面白い歌だ、と思う。

握力を測る機械に見えたけどトイ・プードルと繋がっていた

カツカレーのカツをスプーンで切るときのやればできるはこんな感じか
/小俵鱚太『レテ/移動祝祭日』

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